キャプテン・イッシー

第14話 「鎮魂の海」-レイテ慰霊の旅・父の眠る海を訪ねて-                   

  東京都知事、石原慎太郎が厳父、慈父を語っている。
  「汽船会社に勤めていた父の仕事の関係で小樽から神奈川県逗子に引っ越してきた。 下校途中、橋の下まで潮がひたひたとやって来るのを見て、ここまでボートをこいで来ようと計画して、弟裕次郎とボート屋の息子と3人でやって来た。やがて潮が見る見るうちに引いて行き、浅瀬を引っ張りながらほうほうの態で元のところまで帰った。
 ビクビクしながら家に帰ると、中から父親の怒鳴り声が聞こえてきた。  弟は自分の後ろにしがみつき隠れたが、自分には父親の平手打ちが一発飛んできた。  しかし、手加減しているのがその強さからはっきりと解った。
 無事帰宅したことへの安堵感と「逞しく生きてこそ男だ」と言う父からのメッセージ を感じた。」

 山間の田園で育った私は、物心ついた頃から何故か海への憧憬があった。それは謀らずも父と言う幻影への追慕であった。
 何も大した事をしなくても良い、自分の目の届くところで遊んでいて呉れれば良いとする母親に対して反発を覚え、冒険をすることで自分の中に強い男親の像を育んでいた感がある。
 「世の中にゃ、やってみんことにゃ解らん事があるんじゃ。ぐちゃぐちゃ言わんと、兎に角やりたい事があるんにゃやってみい。」  平穏にその日が過ぎれば良しとする母親に比べて、心の中の父親がそうではないと言う。青春の焦燥感は募る。何故か一度は日本を脱出してみたいと思い、ヨットで太平洋横断を決意した。  海、太平洋、南海の孤島と憧れの地点と点が線で結ばれてやがてその方向性が見えて来た。つまるところ、父の眠る南海の島が私のトラウマとなっていた。
  第二次世界大戦の折、レイテで戦死し、今も島の海に眠る父親へ慰霊という形で近付こうとしている自分を発見した。 新婚生活が一年にも満たない母親と一緒に父の慰霊にレイテ島へ行きたいと漠然と考えていた矢先に、実現の日を迎えることもなく母は他界していった。 それから6年の歳月が流れ、二十世紀最後の年の2000年の7月初旬、私は母の骨を持ってレイテ島の西、オルモツクの海岸に佇んでいた。
  以前からレイテ慰霊団の団長土肥政男(91歳)さんからお誘いを受けながら、現地の事情や航空会社の事情がころころ変わり、やっとこのたび実現の道が開かれた。 本来のコースはマニラからタクロバン(レイテ島東部)へ飛行機で飛び、父の眠るレイテの西海岸オルモックまではバスで移動の予定だったが、諸般の事情で慰霊参拝の順路が逆ルートに変わった。 関西空港からセブ島へ直行して、セブからオルモックへはフェリーで移動すると予定に書き換えられた。奇しくもこのルートは日本軍のセブ-レイテ輸送ルートにあたり、船舶工兵であった父の当時まさに行き来した道でもあり、人生の終焉を迎えに至るルートでもあった。
  オルモック(レイテ島の西海岸)で迎えのバスに乗り、市場で菊の花を買った。日本軍上陸地点だと言われる海岸へ辿り着いて日本軍や父の血をすった黒い砂の上に置いた。 卒塔婆を砂浜に立て、線香を供え、妻と慙愧の海に向かって両の手を合わせた。
 海の色は天の気持ちを反映する。天も泣いているのか灰色の空と海。こみ上げてくる熱 いものをこらえ様もなく、流れて落ちる涙をぬぐおうともせず心の内でつぶやいた。 「親父、会いに来たぞ。嫁(私の母)さんの骨も持って来たぞ。」
 夫婦は骨になっても一緒に居るのが良かろうとの考えを頑なに守り、遥々南海のレイテ島のオルモツクの海へ母の骨を散骨して再び手を合わせた。   和尚さんをはじめ、同行の慰霊団の人々が私の後で手を合わせてくれる。  読経の声を背にうけて、私はズボンの裾を捲り上げた。そしてづかづかと海の中へ二、三歩足を運び、母の小さな骨片を撒いた。生前母から聞いていた父の好物である素麺も流して、安らかな成仏を祈って再び手を合わせた。  
  私の生後三ヶ月で出征して行った父の手の温もりは知らない。背中の広さも、頬擦りのくすぐったさも知らない。父との関わりで、私の五感に記憶されているものは何も無いにもかかわらず、両の目から溢れ頬を伝わって海に落ちる涙が、父と気が一つになって、胸に安堵の安らぎを与えてくれた。
 過去の忌まわしい出来事がまるで無かったかのように、艦砲射撃で傷ついた大地や山々は緑が溢れ生い茂り、犯すべからざる平和な空気が流れて優しくいたわり、屈託の無い人たちの笑顔が、温かく迎えてくれた。
 来て良かった。父に会いに来られて良かった。父の眠る島へ来られて良かった。  じっと目を瞑っていると、母が話してくれた情景が瞼に浮かんでくる。
 父が宇品港から輸送船でフィリピン方面へ向けて出港と決まったのは昭和19年4月のことで、手紙はおろか電報を打ったところで母が私を抱いて駆けつけても間に合わない程の慌しい出港であった。そこで父は、出港前に宇品に居住していた母の友人を訪ねた。母はそのことを後日その人からの手紙で知ったという。  宇品の友人には、私より10日ほど遅く生まれた男の子がいた。 その子を抱かせてもらってあやしながらこう言ったと文面にあった。
  「うちの子も、ちょうどこの子くらい大きくなっているだろうか・・・」