キャプテン・イッシー

第24話 「台風・ヨット・奇跡」 2003.Aug.9

 台風・ヨット・奇跡 「現在(8/9 19:00)32の都道府県に被害をもたらした台風10号 は 東北地方の・・」 テレビニュースの声を夢うつつの中に聞きながらゴザに 横たえた身体に残る快い疲労感の感触を楽しむ。  
目覚めてもう一度、ヨット・アンカー・走錨の顛末を思い出してみると、 助かったのはまさに偶然と幸運と多くの人々の祈りのお陰としか言い様がない。まさに奇跡である。
 まかり間違えば、ヨットは岸壁に打ち付 けられて、船体に穴が開き沈没の憂き目に遭う確率も決して低いもの ではなかった。
 例えば、沈没したとすると、浮上の方法、穴を埋め、運搬、上架、修理 等々が自分の両肩に掛かって来る。 それらの業苦から開放された のだ。 快哉を叫びたくなる。 笑いたくなる。 今年も生き延びた。

 急を告げる携帯電話が鳴ったのは辺りがまだ明るい昨日の午後4時 頃の事だった。 「あんたのヨツトのアンカーロープが切れて横になっとるで・・」との友人 が漁師の言を中継するので質疑応答が出来ないし詳しい事がわから ない。
 雨具を掴んでホームポートである鞆の浦の漁港へ車を急がす。
 助っ人を頼みのメンバーの一人はOKの返事を呉れたが、他は連絡 がつかない。
 一人での作業の覚悟と心の準備はしておく。  今夜は、何も出来ない状態でヨットの惨状を見せ付けられながら車 内泊も覚悟しておく。 沈するなら彼女(ヨット)の最後はオレが見届 けてやる。 今夜は帰れないかもしれない。
   強風圏から風速25m/sの暴風圏へ巻き込まれようとしている海面 を白い兎が飛び、東に開口部を持つ母港の惨状を想像すると胃が痛 い。 
 港に辿り着いた。 対岸の防波堤のヨット周辺の光景を見た。 面 倒見て貰っている漁師の倅の所有する大型のモータボートに風上か ら接触して、ゴツンゴツンと激しいスキンシップを繰り返している。
   強風が吹きかつけるヨットの左舷後ろのアンカーロープらしきものが ピーンと張っているのが見えた。 切れてはいない。 しかし、間違い なく激しく接触している。
 このままだと穴が開くのは時間の問題だ。  ヨットに乗り移る事が出来れば、あのロープを引いて、引き離す事が できるが、それも遅きに失する様だと手をこまねいて沈没の惨状を、 愛艇の断末魔の姿を見届けてやるしか手がない。
 オイルスキン(カッパ)を着た。 テンダー(小型ボート)のオールを 握って、ヨットの前の岸壁へ走った。
 モーターボートにかぶさり、か つ他のボートが設置した十重二十重のアンカーロープがバラストに絡 んでヨットはそれ以上岸壁、浅瀬への侵入は避けられていた。
 台風で荒れる海を見るのが好きな次女がカメラを持って付いて来 ていた。 彼女が、ボートで乗り移ることを止めた。
 私はまだ行け ると判断した。「おとうさん、ライジャケ(救命具)は着けて行きーや」 ともっともな事を叫ぶが、ライジャケはヨットの中。   打ち付ける波に腹を叩かれてグッサグッサとヨットの巨体が揺れる。
 風向きを見た。 今からよじ登り這い上がるヨットの上から、落水し たら身体はどっち向きに流されるかを判断する。
 いまがチャンスだ。 例え落水しても、娘や漁師が見守っている岸壁へ戻ってくる。
「よっしゃ、やるぞ」  おっとりがたなで駆けつけた友人もヨットへ乗り込んだ。
 この強力な風圧と押し付ける波に逆らい素手で風上のロープは引け ない。
 だが、出来るだけボート間にスペースを作りたい。引き離したい。
  幸いな事にヨットにはウィンチがある。 それにロープを巻きつけて 友人にウインチハンドルを回して貰った。
 少しづつヨットとが離れて いく。 手に汗を握る。
 防波堤からは興奮した誰かの拍手の音が聞 こえたような錯覚を覚えた。 例えそうだったとしても、風に流されて 私の所には届かない。
 どんどんウインチを回す。 船体をある間隔まで離す事は出来たが、 それ以上はアンカーの方から近付いてくる様相を見てとって諦めた。
 既にあたりは暗い。 出来だけのことはやった。 僅かだが何かを 出来る時間的余裕とチャンスを貰った事に感謝しつつ、帰宅した。   「今夜半、台風10号は四国の室戸岬付近に上陸して、紀伊半島 を窺うコースを・・・・・」とTVニュースは告げていた。
 僅か一本の左舷スターンのロープの強度がヨットの命運を握ってい る。
 切れないという保障はない。
 イライラする。 酒を飲みたい。  車での緊急出動もありうるから、飲酒も出来ない。 寝た。
 ホームポートは暴風圏の端っこにキチンと入っている。風は東から 北東へ変わり、やがて北寄りに向きを変えた。夜半の空を北から南 へ雲が飛びながら夜明けを迎えた。
 友人と早朝の港へ走った。 左右に軒が迫る鞆の町並が切れて、 港の全景が展望できる一角に来た。
 果たしてヨットは浮いて居る のかいないのか?
 泣くのか、笑えるのか?  最後の信号柱を越えた。
港が見えた。 ヨットは・・・・・・・・・・?  隣接する他のヨットやボートと等間隔に並んで浮いていた。
 「浮いとるぞ。」「やった、浮いとる、浮いとる。」
 風はまだ残っているが、北西からの風はひんやりとして初秋を 感じさせるように快い。
 漁師さんに手伝ってもらってアンカーをやり直そうとロープを手繰って 引き揚げてみて驚愕の声を上げた。
 ロープは切れてない。 アンカーは繋がって上がってきた。
 でも何 か異様だ。 アンカーの先っぽがない。 海底を掻く肝心な爪が無い。  爪の無いアンカーで、あの強風波浪に逆らってヨットを止める事は 不可能である。
・・・・が、実際にはヨットは繋ぎ止められていた。
 そこかしこに無秩序に打った釣り舟のアンカーロープに、自分の アンカーの横木が絡まって止まっていた事が推測される。
 偶然と幸運、友人の祈りが引き止めてくれたとしか言いようの無い 奇跡が起きていた。