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2000年7月12日(水)中国新聞に掲載された

 

「レイテ慰霊の旅・父の眠る海を訪ねて」                     石 川 雅 敏

  東京都知事、石原慎太郎が厳父、慈父を語っている。

  「汽船会社に勤めていた父の仕事の関係で小樽から神奈川県逗子に引っ越してきた。

 下校途中、橋の下まで潮がひたひたとやって来るのを見て、ここまでボートをこいで来ようと計画して弟裕次郎とボート屋の息子と3人でやって来

た。

 やがて潮が見る見る うちに引いて行き、浅瀬を引っ張りながらほうほうの態で元のところまで帰った。  ビクビクしながら家に帰ると、中から父親の

鳴り声が聞こえてきた。  弟は自分の後ろにしがみつき隠れたが、自分には父親の平手打ちが一発飛んできた。  しかし、手加減しているのがそ

の強さからはっきりと解った。  無事帰宅したことへの安堵感と「逞しく生きてこそ男だ」と言う父からのメッセージ を感じた。」・・・と語っている。  

 山間の田園で育った私は、物心ついた頃から何故か海への憧憬があった。  それは謀らずも父と言う幻影への追慕であった。  何も大した事をし

なくても良い、自分の目の届くところで遊んでいて呉れれば良いとする母親に対して反発を覚え、冒険をすることで自分の中に父親の像を育んでいた

感がある。  「世の中にゃ、やってみんことにゃ解らん事があるんじゃ。ぐちゃぐちゃ言わんと、兎に角やりたい事があるんにゃやってみい。」  平穏に

その日が過ぎれば良しとする母親に比べて、心の中の父親がそうではないと言う。青春の焦燥感は募る。何故か一度は日本を脱出してみたいと思

い、ヨットで太平洋横断 を決意した。  海、太平洋、南海の孤島と憧れの地点と点が線で結ばれてやがてその方向性が見出され 行った。つまると

ころ、南海の島レイテが私のトラウマとなっていた。

 第二次世界大戦の折、レイテで戦死し、今も島の海に眠る父親へ慰霊という形で近付 こうとしている自分を発見した。 新婚生活が一年にも満た

ない母親と一緒に父の慰霊にレイテ島へ行きたいと漠然と考え ていた矢先に、実現の日を迎えることなく母は他界していった。 それから6年の歳

月が流れ、二十世紀最後の年の今年の7月初旬、私は母の骨を持って レイテ島の西、オルモツクの海岸に佇んでいた。  以前からレイテ慰霊団

の団長土肥政男(91歳)さんからお誘いを受けながら、現地 の事情や航空会社の事情がころころ変わり、やっとこのたび実現の道が開かれた。

来のコースはマニラからタクロバンへ飛行機で飛び、父の眠るレイテの西海岸オルモックまではバスで移動の予定だったが、諸般の事情で慰霊参

拝の順路が変わった。 関西空港からセブ島へ直行して、セブからオルモックへはフェリーで移動すると予定 が書き換えられた。奇しくもこのルート

は日本軍のセブ-レイテ輸送ルートにあたり、船 舶工兵であった父の当時まさに行き来した道でもあり、人生の終焉を迎えに至るルート でもあった。

 オルモックで迎えのバスに乗り、市場で菊の花を買った。日本軍上陸地点だと言われる 海岸へ辿り着いて日本軍や父の血をすった黒い砂の上に

置いた。 卒塔婆を砂浜に立て、線香を供え、妻と慙愧の海に向かって両の手を合わせた。  

 海の色は天の気持ちを反映する。天も泣いているのか灰色の空と海。こみ上げてくる熱 いものをこらえ様もなく、流れて落ちる涙をぬぐおうともせ

ず心の内でつぶやいた。

  「親父、会いに来たぞ。嫁(私の母)さんの骨も持って来たぞ。」  夫婦は骨になっても一緒に居るのが良かろうとの考えを頑なに守り、遥々南海の

レイテ島のオルモツクの海へ母の骨を散骨して再び手を合わせた。   和尚さんをはじめ、同行の慰霊団の人々が私の後で手を合わせてくれる。   

 読経の声を背にうけて、私はズボンの裾を捲り上げた。そしてづかづかと海の中へ  二、三歩足を運び、母の小さな骨片を撒いた。生前母から聞い

ていた父の好物である  素麺も流して、安らかな成仏を祈って再び手を合わせた。

 私の生後三ヶ月で出征して行った父の手の温もりは知らない。背中の広さも、頬擦り  のくすぐったさも知らない。父との関わりで、私の五感に記

されているものは何も無いにもかかわらず、両の目から溢れ頬を伝わって海に落ちる涙が、父と気が一つになって、胸に安堵の安らぎを与えてく

れた。

 過去の忌まわしい出来事がまるで無かったかのように、艦砲射撃で傷ついた大地や 山々は緑が溢れ生い茂り、犯すべからざる平和な空気が流

れて、優しくいたわり、屈 託の無い人たちの笑顔が、温かく迎えてくれた。  

 来て良かった。父に会いに来られて良かった。父の眠る島へ来られて良かった。  じっと目を瞑っていると、母が話してくれた情景が瞼に浮かんで

くる。

 父が宇品港から輸送船でフィリピン方面へ向けて出港と決まったのは昭和19年4 月のことで、手紙はおろか電報を打ったところで母や私にとって

は間に合わない程の 慌しい出港であった。  そこで父は、出港前に宇品に居住していた母の友人を訪ねたことを後日その友人からの手紙で彼女は

知った。  宇品の友人には、私より10日ほど遅く生まれた男の子がいた。 その子を抱かせてもらってあやしながらこう言ったと文面にあった。 「うち

の子も、ちょうどこの子くらい大きくなっているだろうか・・・」                        フイリピン協会会報から抜粋