'89 HIROSHIMA CUP

OCEAN YACHT RACE

パールハーバー沖をスタート 1989年6月18日12:00
プロカメラマン 漆畑 薫氏撮影


  1989年初夏、広島県は大型キャンペーン「海と島の博覧会」を開催した。それを記念

 して「ヒロシマカップ国際ヨットレース」と銘打ってハワイからヒロシマまでの約一月を要す

 るヨットレースを立ち上げた。戦争の始点パールハーバーから終結のキッカケとなった原

 爆投下のヒロシマへの平和の巡礼と言う課題を背負って・・・・・・・・・・。

 私も家族4人(私、妻、小学娘二人)で参加した。全艇15艇中、家族で参加した艇は3

 艇しか無かったが、36日掛かって完走を果たした。

 

 ハワイの短い休日(7日)、長いレース(36日)

 

  スタートのおよそ一週間前に家族が合流して整備と調整の合間に寛ぐ

  ヨットハーバーのヨット(Konawind with an号)

  このヨットの概要は、全長37フィート X372ヨットである。

  所有する学生援護会ANが心意気に感じてヨットのみのスポンサーになって下さった。


        ヒロシマカップ’89 国際ヨットレース    ハワイ−広島 7400Km

 

  平洋戦争の始まりであるパールハーバーから終戦の決意を下す原因となる原爆投下の

   広島へ平和の巡礼としての国際ヨットレースが広島港筑港100周年を記念して開催された。

   私は家族でエントリーをした。

   当時小学生の二人の娘たちと妻との4人構成である。

   他にもファミリーでの参加艇は3艇を数えた。

   スタートは1989年6月18日正午である。

 


 

 

  ハワイを出発した艇群は、東経と西経を分かつ日付変更線(デートライン)に迫る。 日付変更線を

 通過すれば全行程の1/3を走った事になるが

 残り2/3もあると言うと子供達は、「ハワイへ行こうと言うから誘いに乗ったのに・・・・お父さんに騙され

 た。」と言って嘆息をついた。


 

 

  スタートしてダイヤモンドヘッド沖の風上マークを時計回りに回航していよいよ日本へ向かう

  コースを走る。 北東の貿易風を背に受けてフィニッシュラインである広島郊外宮島の大鳥居ま

  でおおよそ一月を越える航程である。

 

 

 


 

 

 

  揺れないハワイ滞在を楽しんだ子供達は、一転して三次元の揺れのヨットに乗り込み、初っ端から

 船酔いにかかり、ハワイのロマンが風に吹かれて飛んでいったと嘆いた。

 ゴールまで狭い船内で親子4人が力を合わせて交代で舵をとり、見張りをする。 当直を外された組は

 適度に食事をし、遊び、睡眠を取る。

 


 

 

 

  気の良い数十頭のイルカたちが走るヨットと戯れにやってくる。

  子供達は嬌声を上げながらヨットのデッキを走り回る。

  写真を撮ろうとするとイルカの動きとシャッターのタイミングが合わなくてせいぜい1頭か二頭

 の背びれくらいしか写らない。
 

  子供達にとっては持ち込んだマンガは既に読み終えて、楽しみと言ったら時折訊ねてくるイル

 カコンドウ鯨である。もちろん親たちも感動して「あっちにも居るぞ、こっちはジャンプした!」と童

 心に帰り、子供達と同化し遊び楽しむ。 狭いヨットのキャビンと言う空間で約40日も膝を付き合

 わせるようにして一緒に行動し生活した事は後にも先にもこれが唯一の物になった。 陸に上が

 れば、子供達は進んで熟へ行きたいと言い、親は親で何時ものせわしないがつがつとした生活

 に戻った行った。

 


 

  孀婦岩

  まさに奇岩怪石である。 小笠原諸島の北海域にあり、意識してこれに近づかない限り、目撃する

 ことは稀である幸運である。
 
 数百メートルの海底からほぼ垂直に立ち上がり、海上に屹立している。 その高さおよそ100mの円

柱状でもあり、見る角度によれば上向きに摘み上げられて歪になったおにぎりのようでもある。
 

 


 日本列島の南海域を川のように北東に流れる黒潮の影響を考えて一路九州の南端から宮崎を狙い、それから九州東沿岸を北に上って瀬戸内海へ入った。 おりしも台風の接近が報告された。 自分達はまだ十分逃げきれる位置につけているので、余裕の帆走を楽しむ。 にしろヨットレースは余程の緊急事態でもない限りエンジン使用は失格になる。
 逆潮はアンカーを落として潮待ちをし、風と潮流を読みながらの航行は瀬戸内海賊の面目躍如である。 もっとも外国海賊も一様にそれをやり、一艇の落伍も無かったと書きつつ振り返ってみると、3艇のトラブルヨットが数えられた。
 1艇はミッドウエーの珊瑚礁に座礁。 2艇目は我々の後ろを走っていて台風の余波で大波をかぶって宮崎の海岸へ乗り上げた。 二艇とも幸運にも怪我人はいない。
 さて、3艇目のヨットは悲惨を極めた。 毎日義務付けられていた全艇からの無線連絡に一艇だけ応じないヨットがあった。アメリカから参加のヨットだが、事故の報告も無いので、無線機の故障だと思い誰も気にしていなかった。 全艇が無事にゴールしてお祭りが済んだ8月の半ばだった。 新聞に小さな記事が載った。
 ヨットが遭難して、小さなボートで漂流中の二人が救助されたと書いてあった。 この艇は今回のヨットレースへの参加艇であったのだ。 ハワイまであと一日と言う位置まで来て、鯨に衝突して(?)遭難、70〜80日漂流していた模様である。
 イーパブと言う緊急通報用のイーパブと言う無線装置がある。 緊急時にスイッチを入れると近いところだと1時間以内にコースとガードが救助に来てくれると言うしろもので、アメリカでは許可無く簡単に購入し設置出来るのだ。 日本ではこの装置の購入設置は免許と付随する装置と手続きでかなりの金が必要になる。 なんの苦も無く手に入るアメリカのヨットがこれを持っていなかったのは実に皮肉である。


 

 宮島の大鳥居とマークブイを見通すラインがフィニッシュラインである。

 ついに、4人が力を合わせて夢のフィニッシュラインを横切りゴールを果した。 ハワイのパールハーバー

沖をスタートしてフィニッシュまでの所要時間は実に36日と4時間37分01秒であった。

 感激で涙ぐむ妻と娘たちと健闘をたたえながら握手して航海を終えた。


 

 

 

 

 つのレースを戦った他の艇の仲間である。 互いの健闘と航海の無事を喜び合った。

  嬉々として屈託の無い笑顔での記念撮影ではあるが、我々のゴールの2〜3日前に、既に表彰式は

  終わっていた。


 

  話は前後するが・・・・・・・

  これは日本からヨットをコンテナ船に積んでハワイまで送るための上架荷造り作業である。

  レースの一月前、1989年5月ごろの神戸ポートアイランドのコンテナヤードである。

  ここから船積みされるヨットは4艇となった。

  私は、その後、ヨットがホノルルへ着いた頃、受け取りに飛行機で行き、家族は休みギリギリ

 に後日パックツアーでやって来た。