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「呑気呆気(のんきほうけ)・ヨット探し物語(ニューヨーク編)」

大西洋横断と言う夢航海に使用する中古ヨットを探しにアメリカへ渡り、周辺の州の ヨットハーバーを訪ね歩く。
「出 演」
呑 気 呆 気 :Cap.イッシー
サンチィパン茶: takashi吉永
ロバのロシナンテ:ハーツナンテ


メメリーランド州ロッククリークのヨットハーバーにて
[序編]
 ドンキホーテはロバのロシナンテにうちまたがり、従者サンチョパンサを従えて、各地漫遊の旅に出た。行く手に立ちふさがる艱難をものともせずに蛮勇を奮い立たせて・・・。  ラ・マンチャの男「ドンキホーテ物語」ならこんな風に話が始まるのであるが、現代版 「呑気呆気物語」は、嘘から出たまこと、法螺貝から出たヤドカリ?の如く、夢航海のために、アメリカ大陸の地方のヨットハーバーを訪ね歩き、中古ヨットを探して歩く、言わばヨット探し物語である。
 わたしの名はドン・キホーテならぬ「呑気呆気(のんきほうけ)」である。従者は後にレンタカーの独占操縦者となる従者サンチョパンサならぬ「サン・チィ・パン茶(息子・小・パンとお茶)」。ロバのロシナンテはハーツのレンタカーである。名付けてハーツナンテ。
  広大なアメリカ大陸の地方(ニューヨーク周辺の州)の端っこ(町)、言わば大陸の点(ヨットハーバー)に中古ヨット探しの旅に出た。 これはその時の漫遊記である。
呑気呆気は今年還暦を迎える。来し方を振り返ってみるに、可も無く不可も無く、ひたすらに惰眠をむさぼっている。怠惰な生活から抜け出たく思いつつも、ぬるま湯のような生活から身を翻らせてスッポンポンで外気に晒す勇気ときっかけが無かった。
還暦−赤いちゃんちゃんこ−赤いライフジャケット−ヨット航海。そうだ、ヨットでの 航海がある。太平洋往復横断と言う作品は持っているが、あれから28年。でかい作品は無い。もう一方の雄、大西洋横断と言う勲章はまだ持っていない。そうだ、これだ、大西洋横断だ! この勲章が欲しい。
 ニューヨークの自由の女神像の前をスタートしてイギリス南部の港へゴール・・・。 こりゃー良いぞ。 絵になるぞ。 仕事柄、チョコマカチョコマカとした小事多忙の毎日で、下調べや現地調査の準備が整わない。そんな時、良い意味で私のヨットの弟子である男、サン・チィ・パン茶くんが、メカニカル・メンテナンスの仕事を早期退職して悠揚迫らぬ態で現われた。 冷やかし半分で彼にこの話をしたら、現在鋼鉄製のヨットを自作しているにもかかわらず、貪欲に食いついてきた。 曳きは大きい。
 この後は、主たる私が釣り竿を掴んだまま従たる大物魚サン・チィ・パンチャに引き摺られるようにして機中の人となったのである。

 


        


TallOakレストランでヨットセールスのフランクさんを待つ

 [本編・関空からJFK空港へ]
平成15年4月の中半、呑気呆気は従者サン・チィ・パンチャと関空からエアーカナダで機中の人となった。  10日FIX46000円のチケットを得て、とりあえずニューヨークへ向かう。到着日の夜一泊のホテルは予約しておいたが、その他の事は出たとこ勝負の旅である。 乗り換えの空港カナダ・バンクーバーでは、SARSの厳しいチェックで受け、およそ5時間の待合せである。 噂に違わず待合ロビーは閑散として人影も疎らである。OPENしている店舗も真昼間にもかかわらず一、二軒。ロビーの待ち合わせ用の椅子はガラ空きなので、好きなところを4人分使って、真っ直ぐ足を伸ばして横になる。
「タクシーとニューヨークの宿」
ニューヨークのJFK空港へは22:30の到着。小雨が降る人影の少ない空港からは リムジンを避けてタクシーに乗った。  行き先を告げ料金はいくら掛かるか運転手に聞く。走行中はさも町の地理くらいは知っていると言うゼスチャーをするために持っていったコンパスを運転手の視角の端っこに入るようにチラチラと扱う。  お客が旅行者だと一番にする説明はエンパイヤステートビルディングである。形状は過去の色んな印刷物やマスコミ等で知ってはいるが、何処へそれが現われるのか、どのビルとどのビルの間に見えるのか、雨で煙っても見えるのか見えないのかの説明が、英語だからさっぱりである。 セントラルパークの横を通過してウエスト・エンド・アベニューのホテルへ着いた。 トランクを開けて荷物を出す。料金を訪ねたら42ドルだと言う。チラッと見たメーターは38ドルだっのだが・・。そこで再確認と言いつつ抗議する。何度聞いても数字を変えない。「待てよ、ひょっとしてチップも含まれているのかな」と思い「include?」と聞いたらそうだと答えた。 これで一件落着である。正直運ちゃんで良かった。それにしても、チップ込みで請求されるとは驚いた。 ウエストエンドのホテルは内部は大したホテルではない。エレベーターも古そうだし、ロビーなんて滅茶苦茶狭いが、最初の夜、ただ寝るだけの部屋、しかもセントラルパークに近いとなると文句は言えない。

「怪事件勃発」
ここで怪事件が起きた。予約の旨と名前を告げるとフロントの若者が5階だと言いながら鍵を呉れた。バグパッカー等がよく利用する宿だから、部屋のドアーなんかガタガタだし、針金で簡単にこじ開けられてしまいそうだ。鍵のタグを見ると57と手書である。  5階の57号室は見当たらない。では5階の7号室か? 下一桁が消えていて5階の70号室? でも70号室は無い。もう一度5階の7号室の鍵穴へ鍵を差し込んでみると確かに入るのだが、どうしても回らない。 ここのドアーは何層にもペンキの重ね塗りをされていて近くで見ると実に古いことがわかる。ドアーのノッブしかりでおまけにガタガタである。ノブが回らないのはその精かとガタガタさせていると、中からゴトッゴトッと音がした。まさかと思いつつノックしてみた。中からロックを外すような音がして、かすかにドアーが開いた。 先客が居た。 暗闇から銃口がこちらに向いていたかもしれない。「アイムソーリー」と言いながら急いでその場を離れてフロントへ急いだ。フロントで確認したら、517だと言った。手書きの文字の真中の1と右端の7が接触していて形の悪い7一文字に見えた。  つまり517が57に見えたって訳である。7号室の泊り客は、我々をてっきり夜中に進入しようとする強盗か?と怯えたに違いない。それにしても危なかった。自衛の為にピストルでも持っていたら、暗闇から銃弾が飛んできたかもしれない。 狭い部屋に剥き出しの便器と手洗い。 ベッドはパイプ製の二段ベッドである。 シャワールームは廊下の中ほどにあり共同バスルームである。  小雨降る真夜中の街を教えてもらったコンビにを探して2ブロック歩く。男2人だから 出来る事だが、女性の一人歩きは不気味である。

 

「ロシナンテはハーツのレンタカー」
 翌朝は生憎の雨である。大きい通りに出て、レンタカーのハーツまでタクシーを拾った。オプションだが一万円でカーナビも借りて諸注意を受け、従者サンチィパン茶がハンドルを握り、呑気呆気が助手席でマップを広げてナビゲーションをする一週間の旅に出た。 まず南下してメリーランドの方へ移動するのに、どのルートが良いか。それは具体的に何処から乗るのか・・等々を質問して確認するのだが、なかなかネイティブの英語に耳がなれない。 地図を書いてくれと言うとルートとか橋とかの名前を書いて渡してくれるが、どうも地図が描けない人種のようだった。後々、各地で道を尋ねるが、口では教えてくれるが地図を描いてくれた人は皆無であった。

「一路南下してメリーランドへ」
サン・チィ・パン茶が予め日本を発つ前にインターネットの中古艇を網羅したWEBで30フィート前後の適当な値段のヨットを数艇選んでリストアップしていた。インターネットで絞り込んだ地図までプリントアウトして持ってきていたので、場所の特定は難しくはなかったが、フリーウエーのルールに一部解らない所があって、とある地方では高速へ出たり入ったりして一日右往左往して無駄足を踏んだ。後にこの一日の差が明暗分け、暗という結果となってニューヨークの旅は終わってしまう。だが世の中捨てたものじゃない。帰国後暗部を補って余りある明るいニュース(別口別ルートでの大西洋横断)が待ち構えていた。禍福はあざなえる縄の如し・・である。 さて、フリーウエーを使って南下するには、ニューヨークからフロリダへ向かうメインのルートである95号線へ乗ることにした。 ハーツの職員が言う言葉の中で強調されていたのが「ジョージワシントン橋」である。マンハッタン島の東端の道路に乗り入れて車の洪水の流れに乗った。従者は左ハンドルを慎重に操りながら前車に引かれ後車に押され ながら一心不乱に走りつづける。呑気呆気は道路マップを広げて必死にジョージワシントン橋の標識を見失うまいと気が気ではない。北に向かう道路がマンハッタン島の北部に差し掛かると緩やかに西に方向を変える。その内トンネルを潜って出たとき橋への表示が見えた。そして橋に乗った。緩やかな流れの川を曳き船が走っている。 これがハドソン川である。大都会のマンハッタンの西の対岸が鬱蒼とした樹木に覆われて切立った崖のような所とは想像もつかなかった。 呑気呆気はこのハドソン川にも憧れを抱いていた。 この川を遡行すると幾つかの運河を通過しながら五大湖へ行く事も出来る。 数年前、地元の鞆の浦に入港しててきたフランスのヨット「OKAME」のシニア夫婦がそれをやったのだと控えめだが胸を張って語った。 ニューヨークから五大湖に入り、シカゴまで湖航行して、ミシシッピー河をニューオーリンズまで下りて来て、その後パナマ運河を抜けて南太平洋周航の後日本まで来たのだった。 こんな旅にも憧れていたから、ハドソン河は 興奮の面持ちで眺め入った。橋を渡ればやがて長閑さが加味されていかにも郊外の様相を呈してきた。 喧騒のマンハッタン島を必死に抜け出た所で作戦会議を兼ねてサービスエリアに車を止めた。

 



インターネットするなら図書館へ行ったら・・と教えてくれたモーテル

「ワンルーム?ワンベッド?」
 泊まり歩く宿はもっぱらモーテルである。呑気呆気とサンチィパンチャが受付のカウンター前に立つと必ず「ワンルーム?ツールーム?」と聞いてくる。その後で「Wベッド?ツインベッド?」と問う。 貧乏旅行であるのでツールームも要らない。 二人の顔を見ながらベッドは?と聞くから、その筋と間違われているな・・と思わぬでもないが、勿論ツインベッドを要求する。生憎Wベッドしか無いと言われれば一人はソファーで寝る覚悟をするのだが、実物を目にすると随分幅が広いWベッドは体格的にも小さい我々には十分な広さである。今もって疑問だが、何故だかWベッドには枕が3つあった。

 「初日のホテル」
 初日は夜11時頃の到着なので予約を入れておいた。このホテルはバグパッキングの旅行者等が利用すると言われるだけに安くて清潔ではあるが、ボロの部屋であった。ベッドはパイプ製の二段式。トイレは便器が部屋の隅で露出している。シャワーは階の中程にあるが共同で使う。鍵はオールドファッションのガタガタの金具。ピッキングの基礎研究者 用にはもってこいの代物であった。 ただし有料だが階下でインターネットが出来た。

 「二日目のホテル・Budget Inn Motel」
 インド系の経営者 ケーブルテレビ故かハードコアのポルノTV番組があるチャンネルで常時見ることが出来た。残念な事にそれに気がついたのは出発を前にして朝食をかき込んでいるときだった。

「三日目のホテル・ ホリデー・イン]
 フロントでキーを貰って部屋に入るとベッドメーキングも清掃も後片付けも出来ていない。 廊下にいたそれらしき風体の黒人おばちゃんにその旨を訴えると、チラッと腕時計を見たかと思うと、こう宣った。「あぁ、もう時間だ。家に帰る・・・」  埒があかないのでフロントのマネージャーに訴えたら、現場を確認して別室のキーを呉れた。 この蒙った初期迷惑が、幸運と好意を呼び込んだ。  「インターネットは出来ないのか・・」と聞いたら、そんなサービスは無いが、事務所の俺のパソコンを使え・・と言ってフロントのすぐ後ろの部屋へ招じ入れてくれた。 先ほどの迷惑をも加味しての好意にあずかったようだ。日本人として信用されたと思うのは考えすぎか? 勿論、使用料はただ。

「四日目のモーテル」
 3日目の宿はメリーランド州のエルクトンにあるキーストンモーテルであった。ここではその後のインターネット活動に有意義にして安上がりな耳寄りな情報を入手した。ニューヨークの西隣がニュージャージー州、さらにその西隣がデラウエア州、メリーランド州は更にその西隣である。このデラウエアとメリーランドの間に挟まれ南北に伸びる細長い湾がチェサピーク湾である。我が広島県、特に広島湾は全国でも有数の牡蠣の生産地である。アメリカにもチェサピーク湾と言う牡蠣で有名な一帯がある。 もっとも広島界隈のように沿道に「牡蠣の宅配承ります・・・」という看板は何処にもない。ニューヨークの有名なオイスターバーで一度牡蠣を食べてみたかったのが今回渡米の目的はそれでは無いので目を瞑った。さて、話をインターネットに戻そう。初日、ニューヨークではホテルのロビーに一台のパソコンがありクレジットカードで画面が立ち上がる。いずれにしても有料で利用することには変わりは無い。しかし、ここのキーストーンモーテルの若いインド系のあんちゃんが思案のすえに発した言葉がその後に大きく幸運を呼ぶ。 「図書館ならコンピューターはあるよ。インターネットも出来るはずだよ」


 


「最初の有力視したヨット」
いの一番に訪れたメリーランド州のロッククリーク。予め調べて、メール交換で情報交換をしておいた、ヨットセールスマンにフランクさんとハンター32を見せてもらい、程度の良さにご機嫌である。 しかし、彼は言った。「まだ手付金は貰っては居ないが、昨日買い手が付いた。」 昨日のエリザベス周辺でルートを間違い東西南北走りつづけたロス、僅か一日の
遅れが裏目に出た。 「相手は2〜3日内に手付金を払わなければ、君たちに買う権利が与えられる。まだ君たちにはチャンスが残っている」  だが、結局、我々は神に見放された。

your son?」
モーテルから30分ほど走った所にボヘミアビスタというマリーナがある。ここにカタリナ27の安いのがあるので行って見た。沢山の上架艇の中にWEBページに載っている写真と酷似したヨットが見付かり、写真撮影と外観点検を始めた。 そこへ隣に上架しているヨットの老オーナーが近付いて来た。我々は挨拶をして握手をしながらここに来た目的を話した。彼は理解した面持ちの笑顔で口を開いた。私の従者サンチィパン茶を指差して「your son(お前の息子か)?」と言った。 理解するのにやや時間を必要としたが、絶句してしまった。 呑気呆気と従者との年齢差は僅かに4つしか無いのである。 何を間違えたか、我々二人を親子か?・・・・と聞いたのである。日本からはるばるやって来た仲の良い親子なんだなぁ・・と誉めようとしたのだろうが・・・・・・・・。  「このー」と心の中では拳を振り上げそうになった。

「図書館でインターネット」
 一人だと臆してしまうのだが、呑気呆気とサンチィパン茶は欲と二人連れである。  道順と反対レーンとの間違いはすれどもついに図書館を探し当てた。係員にインターネットが出来るかと聞くと、「そこの記録帳に住所と名前を書け」と言う。米語のすこぶる下手な在米人だと思わしたほうがスムーズに行きはしないかと思いつつもダメモトで住所の記載にJAPANと付け加えた。係員はそれを見て「パスポートを見せて・・」と迫り来る。 追っ払われるものと観念して、次の言葉を待った。  係員が言った。「OK、あんたは一番の・・もう一人は二番のコンピューターを使って」 と指差した。 これで一時間ほど日本とのメールの送受信をただで楽しませてもらった。

 「夜10時までOPEN」
聞くと図書館は22時まで開放されているので勤め帰りに立ち寄る人も、夕食の後に読書に来る人にも大変喜ばれている。 税金はこんな所にも良い文化的環境として還元されている。 夕方までだが子供達も図書館を利用しに来ていた。 流石に賢そうな顔をしていたので、どんなジャンルの調べ物をしているのか覗いてみると、何処の子供も一緒である。 ゲームをしていた。 ただしゲームには運営者から選ばれたものが5〜6本くらい しか出来ないが、大人の良識が有害ゲーム、暴力ゲーム等の野放しにストップを掛けていた。この翌々日更に南下して昼食をしたローカルのサービスエリアで聞いて、図書館を訪問してみた。ここは、ネットスケープナビゲーターだったので、MSNのhotmailは最初に出てくる画面では文字化けをしていて何処にメールを読むがあり何処に送信があり、どれが「次ぎ」のボタンなのか解らない。 およその感で、ボタンをクリックすると うまく必要とするボタンに行き当たれば自分当てのメールは仮名漢字でも読める。  滞在7日の内、実に4日は図書館で只のインターネットであり、初日はホテルのロビーの有料パソコン、もう一回はホリデーインのマネジャーの好意でフリーのパソコンに有りつけた。


家の前の一本の樹に黄色いリボンを結んである

「黄色いリボン」
 田舎の住宅街の道路を目指すマリーナを探しながらスピードを落として移動していると所々住宅の前の柱とか郵便受けに蝶々結びに結ばれた黄色いリボンが見受けられる。イラク戦争に出兵した戦士の家なのである。 無事の帰還を願っての祈りを込めた表象であろう。得てして豪華な住宅には、それを見受けなかった。ややランクが下がった住宅や団地にそれが多かったのは、兵士が単なる愛国心からの志願では無い事を憶測させられる象徴的な出来事である。 この黄色いリボンは、もともとは受刑者の帰りを待つ祈りの表象だったそうだ。オークの樹や玄関の柱に結んで、無事出所を祈った。イラク戦争出兵を多く出した町で、あるトラブルが起きた。 オークの樹が無い所だったので街灯にリボンを括りつけた。街灯は公共物である。反戦運動家がそれにクレームをつけた。両者と行政府が 揉めに揉めた。「・・とは言え、今我が国は戦争中である」多くのわが国の出兵兵士の無事の帰還を願う気持ちに替わりはあるまい・・と言うことで、一軒落着した。



 チェサピーク・シティーのとあるこじんまりとしたリゾート

「いいヨットだが売らない」
 日本では、鹿島郁夫さんが打ち立てた5mのヨットによる太平洋横断が、太平洋での最小ヨット記録ではないかと思う。アメリカでは12フィートディンギーに幌を張ったヨット「ティンカーベル号」が大西洋横断の最小記録だと記憶している。手漕ぎのボートでそれを成し遂げた人も居て、さすがはパイオニア精神旺盛なアメリカだ・・・と尊敬の念は消えない。困難に立ち向かうチャレンジには米国民全員が応援をしてくれるものと思ってたが、必ずしもそうではない事が露呈した。  WEBサイトで中古艇を探し、介在者にメールを送り、大西洋横断の趣旨を説明する。 27〜30フィート位のヨットを手に入れて、ニューヨークから英国へ向けて横断したい旨を説明すると一様に「このヨットは小さい。勧められない」と言う。アドバイスはありがたく聞いておくけど最終的には自分の責任で行うべきものであるから、現物を見て自らの意思で決定すべきだ・・・と押し問答になる。  ニュージャージー州の南に、瀬戸内海の幅を3マイルに縮めたようなクリークがある。北側は大陸だが南側はまるで一文字の防波堤が40マイルの長さに伸びて外洋のうねりを遮ってくれている瀬戸を想像すればわかりやすいが、その中ほどにサンデーフックヨットセールスというのが有った。一家で経営しているとみえて、事務受付の愛想の良い奥さん に迎え入れられた。 主人にWEBサイトで見た中古ヨットの事を訪ねると「あれは売れた」と言う。 最後の望みを託した場所でありヨットでも有ったので、落胆してしまった。  他に出物は無いか・・と聞くと、一枚のファイルを取り出して、「こんなのが有るが見てみるか」と聞く。 付いていくと、何と32フィートのヨール(二本マスト)で、しかも 外観も内装も綺麗である。 内心思った。「このことじゃ。残り物には福がある」・・と。  桟橋に舫われたヨットは、整備も良し、ジブファーラーも綺麗だし、ドジャー然り。  エンジンも調子は良いと言うから、燃料と水と食料を積み込めば、いますぐにでも出発出来そうな良い印象を与えた。 キャビン内でレクチャーを受けながら、こちらの大西洋横断の大構想を話し始めた時、一瞬オヤジさんの表情が変わった・・と相棒が後で話してくれた。 買取るまでは使用目的を言うんじゃ無かったと臍を噛んでもあとの祭りである。 事務所に帰ってきて「あのヨットを買いたい」と言うと「あれはお前達の目的には小さい、弱い。 こんな物を勧めるには長年ヨット界で信用を得ている自分としては責任が持てないから、売らない」と言い出した。 拙い英語でどう粘ってみても、相手の主張を変えさせる事は出来なかった。 せめて35フィート以上で、ロングキールで、ダブルエンダーでなきゃ危険だと言う。 最後には、一縷の望みを託して訴えてみた。 「日本からわざわざやって来たのだから・・」 ニベも無く、慇懃無礼に言葉を返された。 「そうか、よく来たな。 また来いや。」

 


若いカップルが楽しそうに乗る、二人乗り三輪オートバイ


「ラストチャンス」
 オーシャンゲートシティを早々に離れて、New Yorkへ帰るべく95号線に乗り入れた。
道を間違えてしまう魔のエリザベスから右折してルートを東へ向かうとスタテン島からロングアイランドへ掛かるベラザーノナローズ橋がある。 ニューヨーク港の入り口でロングアイランドとスターテン島をむすんでいる吊り橋。全長は1298m、もっとも高い塔の部210mもある。ロングアイランドへ入ると暫くはマンハッタンの摩天楼群を左手に見ながらの走行は、地方から来る車等で大混雑を呈してくる。 サンチィパン茶は運転に気を使い、呑気呆気は地図から目が離せない。チラッチラッと 窓外に目をやると緑青色の自由の女神像が見えた。眺めたと言っても時間にして10秒ほどである。テンパイヤステートビルディングもその程度の一瞥に過ぎない。国連本部ビル は見えた筈だが、ナビゲーションに気をとられて見たという記憶が無い。 
 午後も中半を過ぎて、もう一箇所、ヨットのメッカであるロングアイランドの あるハーバーを訪ねた。事務所には灯がついているにもかかわらずドアーには鍵が掛かっていて、電話をすれば留守番電話。 夕方まで待ったが事務所の人は誰も帰ってこない。  隣接するボート関係の事務員が帰りかけたので相談してみたが、「今日は待っても無理かもしれない。明日は土曜日でお休みなので・・・・・」と情況は芳しいものではなかった。  今夜の宿取りもまだ、レンタカーの返還もまだ。 ルートを間違う事も考慮して早めに 完敗宣言を出して、一路JFK空港へ向かった。


一週間ぶりにニューヨークへ帰ってきた


「最後の夜」
 空港の近くに取ったホテルへシャトルバスで連れて行ってもらった。 出発便は翌朝7時である。 外出は諦めて一階のレストランで豪華にストリップステーキを注文した。厚みは3cmはあろうかと思われるでかいミディアムレアーのステーキが出てきた。 今までは殆どコンビにやスーパーで買ったレトルト物だった夜食も今夜だけは特別である。 話に聞けば、噛んでも噛んでも噛み切れないくらい硬いステーキだと覚悟していたら、以外にも柔らかく美味い焼き上がりで、満足した。 ちなみに宿泊が一部屋10000円、ステーキが二人で10000円。  

 

白一色カムチャッカ半島に聳える死火山。

 

「大韓航空撃墜ルート」
 JFK空港を飛び立ってバンクーバーで関空向けの飛行機に乗り換えである。  アリューシャン列島は機内食と睡眠時間とやらで、窓を明けられなかったので、確認が取れなかった。 その内に南北に長い海岸線が見えた。陸上部はすっぽりとユキで覆われている。 時刻と形状から類推して、それがカムチャッカ半島である事が解った。 糸のような細い噴煙を上げている活火山、富士山のような死火山が望見出来る。 ひょっとして、ソビエト時代なら確実にミグ戦闘機で撃ち落されたであろうルートかもしれない。  大韓航空機が撃墜された同じ航空ルートを飛んでいた。

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