'95 ウラジ・ヴォストーク

ご意見・ご感想・ラブレターはこちらへ

 

スラブ系美人

「ロシアへのプロローグ」

 春まだ浅い四月の始め、新潟県外洋帆走協会から一枚のパンフレットが届いた。「ウラジオ ストック開港100年記念国際交流アドベンチャー」と銘打って‘95環日本海友好クルージングに参加しませんかという内容である。1991年2月28日にウラジオストックと姉妹縁組した新潟市を出発して彼の地へのロシア艇と日本艇との合同親善クルージングである。
  つい2,3年前まではソ連の太平洋艦隊がある軍港なので外国人は言うに及ばず ソ連の人も特別許可を持たないと立ち入りは禁止であった。
  新潟からわずか480マイル北西の地ウラジオストックは、また横浜からナホトカ経由でモスクワまで鉄道で結ばれるシベリア鉄道の始発駅があるところとしても有名である。勿論現在は横浜−ナホトカ航路は廃止され、新潟−ウラジオストック航路がシベリア鉄道の出発点である。軍港であるがゆえに外国人は誰も見ることが出来なかった街でもあったが、ソ連崩壊後はつとに自由化が進み、現在では訪問、観光は自由だと聞くといつか行ってみたいと思っていた。

 

松井艇長所有の”松風”

[いざ出発地の新潟へ]
 6月の下旬のことだ。「松風号」のオーナーから無事に新潟港へ着いたと言う電話 が入ったので,新幹線を乗り継いで新潟ヘ向かった。  新潟へはロシアから大小12隻のヨットが既に入港していた。日曜日にロシアと 日本の艇約40パイが親善のヨットレースを行ない,表彰パーティーはアルコール とロシア語会話集の力を借りて大いに盛り上がりをみせた。酔いが醒めてから, 名前を書いてもらった手帳を広げて見ると人物と名前がまるで一致しない。翌朝, 本部前の洗面所で顔を合わせてお互い会釈したり握手したり,朝のあいさつをす るのだが,誰がサーシャで誰がミーシヤかサッパリわからない。お互いヨットマ ンと言う共通種族である共感のみで心が通じ合っているという他人から見ると不 思議な光景である。驚いたことに,出港前日には,それぞれのヨットの前の岸壁 には,どこで手に入れてきたのか,中古のタイヤ

ロシア遠征メンバー

とかゼロハンオートバイが山積みされていた。凌いのは,自分の自動車の修理のためか,乗用車の左ドアー枚と言う買い出しもあった。それが出発の日の朝には,きれいさっばりと狭いヨットの船腹に消えていた。ロシアのヨットマンは誰もホテルに泊まらない。むしろ円高のせいで泊まれないのが実情である。出発の前夜まで彼らの宿泊施設となるヨットのキビンは夜が明けると貨客船の船倉と化していた。


[ロシアは霧の彼方]  

五里霧中・ロシア大陸近海で霧の中を走る

昨日までとは打って替わって土砂ぶりの雨の中を,通勤のラッシュに巻き込ま れた関係官庁の役人が40分近くも遅れて到着した。仮の事務所が狭いため,手続 きが出来たヨットから順番に出港しても良いということになり「松風号」はイの 一番に帆を揚げた。かすみぼかしの佐渡島まで30マイル(54km)は5、6時間の 距離だ。そこからウラジオまでは450マイルで順調にいけば75〜90時間のノンスト ップ距離である。沿岸警備隊の艦船があらわれてトラブルごとがなければ3日も 走ればついてしまう。ロシアのヨットのクルーには軍艦の関係者も居ることだか ら安心ではあるが,すぐ近くを走っている日本艇2ハイ以外は水平線の彼方にあ ってお互いその姿を見ることが無いのでトラブっても連絡のしようがない。無線 器はあってもロシア語はしゃべれない。 うろおぼえの言葉は役に立たない。「スパシーパ(ありがとう)」「ズドラーストビ チェ(こんにちわ)」  出発して2日の昼前から南西の風に乗って寿がとタヒタと後から押し寄せてき た。盆地の霧は風が吹くと晴れていくが,海の霧は風が運んでくる。南からの湿っ た空気がリマン寒流に接して霧になり10m先が見えなくなる。 ひどい時は自分の ヨットの舳先が見えない。 目隠しをされて走っているような気分である。辺りを走っている本船全部こちらへ 向けて走ってきているのではないかと妄想に駆られる。しかし,このヨットにはレー ダーを持っているので見張りをしていれば本船や他の2ハイのヨットの位置関係が刻 々把握できる。彼らはレーダーが無いので不安で仕方がないと言ってくる。適当な時間をおいて無線で辺りには障害物が何も無いことを知らせてやる。ノンストップでの 航海だから昼も夜も走る。2人一組で4時間交替の当直は,コースとレーダーのチェ ックと食物飲み物(特にビール)の用意をしながら,穏やかな日本海を北西にひたす ら走っていく。

 

ウラジ・ヴオストークのピョートル湾入り口

 3日目の昼前,既にロシアの領海内へ入っているはずだからロシアの国旗をマスト の右舷側に揚げた。左舷には検疫の黄色いQ旗を揚げた。無線での情報によればウラ ジオは小雨が降っているそうだ。走っている海域では一日中寿の為視界が悪い。午後 になっても霧が晴れないので山も島も見えないが,レーダーという文明の利器の画面 の端に大陸や島

ロシア領海内を走る松風号

影がロールシャッハ画面のように見えてきた。時が経ち霧の幕が破れ た所に,アムール湾入口にある半島が見えた。頂にはトーチカがあり銃口がこちらを 向いているかも知れないが,兵士が双眼鏡で監視していても,こせこせせずに堂々と進んで行こう と腹を決めた。
 ロシアの国旗をマストに掲げる段になって戸惑った。無いのだ。赤い地に鎌とハンマーのマークの旗が無い。 冷静になって考えてみると、それはソ連の旗。今はソヴィトが崩壊してロシアとなり、白青紅の三色旗に変っていたのだ。世界は常に変動しているのだ。

 

ウラジ・ヴオストークの街

 午後遅くなり日が西に傾く頃、先行する他の艇を目印にアカデミーハーバーに入った。まだまだ辺りは明るいのだが,午後6時半を回っているので入国の手続きは明日だと言って役人たちは帰つていった。  我々より2〜3時間前に鳥取から単独でやってきたヨット・沖の太夫の連中がもうロシア人の様な気分になって陸岸から「ウェルカム松風!」と叫んでいる。彼らも我々と同様,上陸の許可が下りるのは明朝であるはずだがもう上陸していて関係ロシア人に混じって迎える側の様に振る舞っているが,誰も気にしていない。私も気にせずヨットと岸壁の間に横たわるわずか50cmの国境を跨いで上陸した。

帆船ナゼディーダ

 

 防波堤の沖にナゼディーダと言う名の帆船が,ピヨートル湾の彼方、ロシアの広大な大地に沈んでいく夕日に優美なシルエットを浮かび上らせていた。

招待されたロシア人の家での料理

[ロシアの大地よズドラーストヴーチェ]  
  4日目の夜が明けた。10時までには関係役人がくるだろうという言葉を信じて いてもイライラが隠せない。ロシアのお もだつヨットには三々五々クルーがやっ てきて朝からウオツカと自家製のソーセ ージで一杯やっている。役人を待つ間に, 物知りのウラジオ通に聞いていた手続き 早済ませの妙薬を3つ作った。上陸許可 の書類は冗舌な会話を交えながらのんび りと続けられたが,ただ書類に目を通す だけのことだった。  妙薬はビニール袋に入れたビール3 缶,たばこ3箱である。  検疫も税関,入管もクリアーして晴れ て正式に上陸したのが昼前であった。  まずは観光しましょうと,ヨットマン であり通訳であるヴィタリーさんとサー シヤなる者がワンボックスのバンで迎え に来てくれた。そして,革命戦士広場で 「この辺りがこの町の中心です。3時間 後にここへ迎えに来ますから,それまで 自由に見学してください。」そして,こう 付け加えた。「治安が悪いですから,自由 行動は避けて下さい。」みんなで歩けば恐 くないが,単独での自由行動は避けてく れと言う意味だと解釈して,6人が一団 となってぞろぞろ歩き始めた。ふと見る と日本人らしき若者が一人で,ロシア語 会話の本と地図を片手に単独行動をして いた。ジーパンに半袖のシャツというざ っくばらんないで立ちで,物怖じせず生 き生きとした行動ぶりは印象的でした。  道路は路面電車が走り,道路にはたい ていどこかにぶつけた痕跡をのこす日本 車であふれていた。乗用車はともかく, トラックなどは「○○商店」とか「○○ 旅館」「○○ぢの薬」と書かれたまま走っ ていた。丸大ハムのマークをそのままに した車を見たとき,本当に外国へ来たの だろうかと頭を傾げた。

両替して使い切れない大量のルーブル

 

 [買物,観光]  
  せいぜい1km平方の場所ががメインで、国営商店、自由販売店等が集中していて他にめぼしいものは殆ど無い。ショッピングといっても特別珍しいものはない。ロシアらしい物といえば、入れ子式の人形マトリョーシカがある。中型のこけし人形くらいの大きさで上「身体を分割するとまたその中に人形があり、それを取り出して2分割するとその中に更に小さな人形がある。玉葱とその皮の様な人形と言えば解りやすい。素朴だが、いかにもロシアと言う気がして10個も買ってしまった。他に食指が動く物と言えばキャビアであ る。世界3大珍味と言えば,フォアグラ、トリュフォそしてキャビアである。チョウザメの卵が外貨獲得の主役としての価値があり、観光客は大型饅頭くらいのビン2つまでが無税でそれ以上は関税26%が掛かるそうだ。  他に際立つものと言えば,美人の多い ことだ。ロシアは多民族の何である。中でもスラブ系の女性は眉目秀麗と言う月並みな表現では当たらない,ウーンと唸って言葉が出ないと言うようなショッキ ングな美しさである。もちろん街を行く女性全員がそだと言う訳ではない。 さて食物に関しては,ヨットマンがむさくるしいヨットの中へ持ち込んで食べていた酒盛りの酒肴も,庶民の家庭料理 も,レストランでの食事も口に合わないものは無かった。きゅうりの酢付けビンずめとでもいうのだろうか,アメリカでピクルスと言い,ロシアでオーグルチサリョニュという。これは日本で言う漬物のよう食べても,ウォッカの酒肴としても結構いける。  ショッピングは国営商店とか自由販売の店とかがあり,コーラ,アイスクリーム(韓国ロッテ)やスナック頼も売っていた。どこの国も休日の風景は一緒である。 歩きながらアイスクリームを食べ,コーラをラッパ飲みにしている。感心なことにゴミは落ちていない。食べた後のゴミは要所要所に置いてあるごみ箱にちゃんと捨てている。自由販売店なるものが歩道の脇に沢山あるが,日本の建設現場の箱型簡易事務所と思えば良い。衣料品, 靴,装飾品を扱う店,文具,使い捨てカ メラを売る店,スナック,飲み物を扱う店もある。どの店も商品のストックが無 くなったら昼間でも店を畳んでしまうのどかさである。  ビン,缶類を扱う店で面白い光景を目撃した。我々の事務所の机樫のテーブルの上にコーラ,ジュースあるいはチリ& ガーリックソース等を各種一本づつ置いてその前に値段を張りつけている。台の上の品物を買うと,その空いたところへ, テーブルの下のストックからまた一本だ け取り出して陳列する。勿論冷やしていない。夜店で見た輪投げの光景である。 うまく輪をはめて持っていかれた商品の跡にまた同じ商品を置くやり方である。 ずら−と商品を並べたほうが購買意欲を かきたてるとは思うのだが,ひったくり防止の対策なのだろう。ともかくも,贅沢を言わなければ生活する事に,行楽を楽しむ事に不自由はしていないようだ。

 レートは50倍。500000ルーブルの値札を見てビビッた。計算してみると、わずか10000円であった。

 

眼下に見えるロシア太平洋艦隊をバックに

[ウラジオの歴史と今日]  
  ウラジオストックはロシアの極東最大 の都市としてロシア共和国極東地方の中 心である。人口はおよそ65万人。東方(ウ オストーク)を征服(ウラジ)せよ」と 言うロシア語が地名の由来で,19世紀末 から20世紀初頭にかけての帝政ロシアの 積極的な極東政策にともなって建設された。その古き良き時代の面影を残すウラ ジオストック駅は今は改装中で,天井に 描かれた絵や装飾は足場の陰になって見 えない。シベリア鉄道はここを出発してモスクワまで全長9297km,約7泊8日の世界一長い大陸横断鉄道である。日本最長距離列車は東京と西鹿児島を結ぶブルートレイン〈はやぶさ〉である。シベリア鉄道 の〈ロシア号〉は,走行距離にしてこれの6倍,所用時間で7.5倍となり,東京−西鹿児島を連続して4往復することに匹敵する。  ウラジオ駅のすぐ南裏側は,海の玄関 口フェリーターミナルがあり新潟からの定期船が横付けされる。そこを東に数百m歩けば赤軍太平洋艦隊の潜水艦博物館があり第二次世界大戦で活躍した潜水艦C−56がそのまま陸揚げされている。あるいは日露戦争当時の日本の一人か二人しか乗れない戦車等を展示した海軍博物館は,赤レンガの教会の建物を利用してこじんまりと立っている。その東棟のケーブルカーを使って上れば港の全景を見渡せる展望台に至る。ここに立って写真を撮っても今は誰も文句をつけない。2 〜3年前であったら恐らく逮捕されて行方知れずにされたであろうと思うと今昔の感がある。

シベリア鉄道の東の基点・ウラジ・ヴオストーク駅

 

[トイレについてのうんちく]  
 ウラジオの町にはトイレが有料,無料にかかわらず絶対数が少ない。デパートにもお客用のものが無い。ホテルでも時間帯により鍵が掛かっているときがある。ウラジオ駅のは,300ルーブル(6円)取られて,おまけにガラス張りである。防犯上の問題もあるのだろうが,つくばむところまでみなお見通しである。新たにやってくる人 と目線が合ったりしてなかなか緊張緩和に至らない。レストランやホテルのトイレは何とトイレットペーパーが無い。腰掛けてふと横を見ると,饅頭箱の蓋の様 な物に不揃いな折紙大の紙が置いてあ る。まるで和紙のようにゴワゴワとして, 始めはこれを何に使用するのか理解でき なかった。日本のロール状のトイレット ペーパーらしき物も何も無いとなれば, この和紙状の物が何であるかは,理解で きた。さて,その下方にこれもまたオー プンな底の浅い箱があり,ややシワのある使い古しの和紙が広げられたまま無造作に重ねる様に置いてある。よくよく見 ると,真ん中あたりに黄色いシミが見える。どうやら使用済みの紙を,便器が詰 まるから便器の中へ捨てないというルールをきちんと守っている訳である。おいしい物を食べているレストランで中座して,ト イレでこの情景を目のあたりにした時は驚きと気分の悪さで反吐を吐きそうになった。一度か二度ほど来たことのある通の人のアドバイスは,まさに適切であっ た。上陸するときはティッシュペーパーかトイレットペーパーは忘れずに持って行きなさいと言ってくれた。まさに神の啓示にも聞こえた。

         終  章

サーシャ(手前ひげ)とセルゲイ

ウラジオストークからの帰路はロシア人セルゲイとサーシャとその子供達を含む6人の旅である。朝夕は私が飯を焚き、昼は彼らに料理を任せたら、子供達とジャガイモの皮をむいで本格的なボルシチを食べさせてくれた。着ているものは穴のあいた衣類を着てはいたが、さすがヨットマンである。トラブルが発生しても、指差して一言二言ヨット語(英語)を言うだけで、状況の把握が出来て、機敏に動く。霧にも雨にも躊躇はしない。自然と対峙しているだけにトロンとはして居られない。ボロは着てても心は錦である。言葉は通じないが、ヨット運用に関しては共通語で意志の疎通が出来たので快適な旅が続けられた。
ウラジオストークから小樽までの日本海洋上にて。