坂 本 竜 馬(1835-1867)

鞆の浦とのかかわり

 

いろは丸事件

 

慶応三年(1867)年4月23日の午後11時、長崎から大阪に向か

う伊呂波丸と紀州塩津の港を出て長崎へ向かう明光丸が、備讃瀬戸の西

端六島沖で激突した。

伊呂波丸は坂本竜馬が率いる海援隊が大洲藩から一航海五百両で借りて

いた百六十トンの蒸気船である。

霧が出始めていた暗夜の海上での衝突沈没事件である。

この衝突直後、紀州藩の高柳楠之助等と賠償交渉のため鞆の津(現:広

島県福山市鞆港)へ泊まった。

竜馬は万国公法を振りかざして明光丸側をたじろがせて、外聞の悪さに

悲鳴をあげた紀州藩はやむをえなく海援隊に賠償金七万両(現在の金で

約50億円)を支払った。

余談だが、この賠償金を受け取った海援隊士が大阪についた十一月十五

日の夜、竜馬はすでにこの世に居なかった。

 その夜、陸援隊士中岡慎太郎とともに、京都近江屋の二階で刺客の兇

刃に倒れていた。

 

 福山市(左上)、鞆の浦(左中)、四国・香川県三崎半島(右下)

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