海・千夜一話物語 第1001話
二人ぼっちの太平洋 [ついにサンフランシスコだ]
1975年 八月三十日(土)晴れ 西の風 79日目
雅敏
イチ、ニッ、サン、シー、ゴー、パッ。 五秒毎に灯台が投げかけてくるスポットライトのビームの中を 沖合一マイルの至近距離に接近
し、霧笛を背に通過したのは午前二時であった。 いよいよ俺達の歴史的瞬間、ゴールデン・ゲート・ブリッジヘ のフィニッシュの日のプ
ロローグが始まる。
四時過ぎには、もう東天に白々と朝の気配が訪れ、遥か西方の 混沌の中へ夜が消えて行った。
ポイント・レイ灯台からゴールデン・ゲート・ブリッジに連なる山の稜線が薄明りの空をバックにハッキリと見える。
陽が昇った。 半島は薄っすらと朝モヤに包まれているが昨日の濃霧のような ことはない。 沖合には濃い霧の層が見えるが、あり
難い事に、そこで止まっているらしい。幸運だ。 あたりはさらに明るさが増して来た。 遥か前方の正面やや左手のモヤの中に、黒っ
ぽい煙突の様な物体が二本見えた。 「もしや・・・・」と思って双眼鏡を目に当てて、焦点を合すとゴールデン・ゲート・ブリッジの橋脚に
見える。 距離があるので、橋を吊っているワイヤーは見えないが、臭い と感で、それだとわかる。
走れ!走れ! ポルテ・チノ!
二、三パイのヨットやフィッシヤーマンポートが近づき、手を 振りながら行き交う。 俺達は、すでにアメリカ領海内を走っているのだ。
かって、リハーサルをやった通りメインマストの左右スプレダーに星条旗と黄色のQ旗(検疫を求む)を高々と揚げ、我が国の
日章旗
を後方に低くバックステーに結んだ。 海の色はだんだん浅海の色のグリーンに、茶色が混って来た。 視界は良好。
週末である。
フィッシャーマンボートの数も増えた。 風は弱くはない。この西寄りの風に助けられてボニタ・チャンネルに入った。
切り断った崖の
上にポイント・ボニタの灯台が見える。 アルプスの山小屋風の白塗りの家が灯台なのだ。この優しそう な灯台が居を構えているボニ
タ岬はサンフランシスコ湾への最後のコーナーである。
紀子にティラーを任せて、風波があるチャンネルを帆走しなが ら、あるかも知れないブリッジ下の逆潮流に備えて長い間使用し
なかっ
たエンジンをスタートさせてみたら、うまく始動した。 いつでもクラッチを入れられるようにしておいた。ニュートラ
ルのままで、あくまでも
セーリングでフィニッシュするつもりな のだ。 チャンネルの東端を示すブイを右手に交わし、すぐ左ヘターン すると眼前にゴールデン・
ゲ−ト・ブリッジの力強いそして優美な姿が飛び込んで来た。
十数年間、想い続け夢に見、うわ言にまで叫んだゴールデン・ ゲート・ブリッジが真正面に迫って来た。
好事魔多。 喜びに狂態を演じている時、キャビンの中から煙が出て来た。 エンジンのオーバーヒートだ。
長い間使用しなかったの
で、冷却水系統の配管か冷却室の内壁に水アカでも附着して冷却水がうまく通らないか、冷却能力が低下しているのだ。
すぐにエンジ
ンを切って、風だけに頼る。 幸運な事に、風は西の風がサンフランシスコ湾内へとヨットを後押してくれ、更に幸運な事には一番心配して
いた潮流が湾内へと流入していた。 風と潮流に助けられながら、熱を出したボルテ、チノ(蒼い狼) はそれでも、ゴールを目差して走った。
正午。 十数年間、夢見続けて来たゴールデン・ゲート・ブリッジに中央橋脚の左手から進入してフィニッシュした。
ついにやった!!
カメラのシャッターを押しまくりながら、こみ上げてくるのをこ らえきれずにまたもや俺は泣いた。紀子も声を上げずに、目を真赤
に泣き
はらしている。
「お袋!ありがとう。とうとう、やったぞ。」 平行して追い抜いて行くヨットが手をふっている。 意気揚々と湾内へ滑り込むと、正面に、
映画や写真で見覚えのある監獄島(アルカトラズ島)が見えた。 その手前の海域では、週末のディンギーレースが行われていて、
ファ
イヤーボールがジャンジャン走っている。 転覆したのもある。ふと、昔の事を思った。
まだクルーザーなんて持てなかった頃のわずか
4メートルのOK ディンギーでの沈没の事とオーバーラップして目の前の沈艇を見ながら、ニヤッとした。
そこに、若かった頃の俺が居
るような気がして、虚心に笑ってし まった。 索漠としたあの頃の夢を、ついに成し遂げたのだ。
右手に摩天楼が立ちならんだ、まさに
アメリカの表情が迫って来 た。
「ホエアーイズ・ヨットハーバー?」 近くを通りかかった21フィートのヨットを操っている黒人に問 いかけた最初の英語だ。
「ハーバー、ハーバー」 四、五回叫んでやっと理解してもらった。そして先導してもらいながら、ハーバーの位置がわかった時、彼はタ
ーンして帰って行った。 ハーバーに近づくと、大型クルーザーが寄って来た。 2家族ほど乗り込んで週末のセーリングを楽しんでいる
のだろう、 子供も老人も居る。
俺達から声をかけて、ハーバーの入口を聞いたら「フォローミ−」 と言いながら、ジェスチャーで、ついて来るようにと合図した。
紀子に
ティラー(舵取り)を替ってもらって、エンジンを始動して機走に変えた。 風圧が強くて、ベアー・ポールされるので、エンジンの回転を上げ
た。 ふと冷却水の排水パイプを握ってみて唸った。火傷する位い熱い のだ。 いそいでエンジンを止め、再び帆走に切り替えた。
悪
い事に、このハーバーへ入るには潮が逆潮で、風も逆風なので ジグザグのショート・タックで入らざるを得ない。 この細長いハーバー
の幅の狭い水路を、とてもじやないが、タッ クしながら入れたものではない。 「どうしようか」 と思案していると、どんどん湾の奥深くへ流
されてしまい、セーリングを楽しんで帰港するヨットの問を縫うよ うにしてショート・タックをくりかえしながら元のハーバーヘ近づ
くが状況は
変らない。 ハーバーの入口で二時間、悲痛な面持ちで右往左往しながら自力 入港を試みたが、結局、帆走での進入は不可能と判断し
た。 ゆうベから寝ていないのと、今日の疲労とで、これ以上頑張るこ とが出来なくなるほど、身心共に疲労困焦した。
風向が変らない限り帆走での入港は無理だ。やっても無駄なのだ。 多くのヨットが週末の帆走を楽しんだ後、次々に入港しに近くを
通
って行くが、その内のごく近くを通りかかったモーターセーラー に曳航を頼んでみた。
「We come from JAPPN」 「OH ナントカ、カントカ・・・」 「but。engin trable,
Take me OK?」 「OK」 ロープを手渡して曳航を開始し
た。しかし、若いカップルの操る この24、25フィートのグラスファイバー艇では、ちょっとパワ ー不足で無理なようだ。
彼が、しばらくして、
こう叫んだ。 「いま俺達のエンジンはフル回転なんだ。」 そう言いながら両手を広げ肩をすぼめて嘆きのジェスチャーをした。
そして
指差した海を見れば、ヨットは全然進んでいない。 一旦、アンカーを打ち込んで待っておれば、他の船を連れて来ると
言い残して去って
行った。 その時、ハーバーの外からコースト・ガードのランチがやって来た。
俺たちの様子の異状に気付いた誰かが連絡したのだろう。 日本の海上保安署の処遇を知っているので、官憲のお世話にはなり
たくな
かった。 やって来たランチは、俺達のヨットを横抱きにすると言い出してロ−プをかけ始めた。 相手の船に防舷材のゴムがあるとは言
え、スタンションが接触で、 ひん曲る位い荒っぽいが、もう観念する。 少々ヨットが壊れても、無事に桟橋へ横付けになり、休める事の方
が、今の俺たちにとっては何ものにも変え難い喜びなのだ。 曳航されて行くヨットのデッキに、気恥かしい思いで立ちつくして
いた。
コーストガードのランチは沢山の大型ヨット群の中の水路を静々と入って行った。 一番手前の桟橋に日章旗を揚げたトリマランが見え
た。 手を振っている。 反対の海側のボンツーンの艇群におそるおそる目をやった。 見知らぬ人の目が皆んな俺たちの方へ注がれて
いた。 中には手をふってくれる人も居る。 「よく頑張った」 と言わんばかりに握り拳を耳のところで振って
見せる人も居る。 「ブラボ
ー」とでもいうように両手を頭の上で握り合わせて振って くれる人たちも居る。 どのヨットマンも、一様に暖いまなざし、優しい表情で笑い
かけて くれる。 俺も紀子も、感激しっぱなしだ。 心憎い、ジェスチャーを通して、ヨットマンの心が伝わって来た。
ランチは俺たちのヨットをハーバーの中程にあるゲスト用のピアー に横付けにした。 しっかりと係留したのを見届けてから、キャプテン
が「何かメモ用 紙はないか」と聞いた。 手帳の紙を一枚、千切って渡すと「これに、住所と氏名を書いてく れ」 という。
アメリカでは、こ
んな時のための書類という物は持っていないのだろうかと驚きながらも、公けの船に曳航してもらったのにこのていどの事で済むのを喜び
ながら、鉛筆にカをこめて書いて、手渡した。
それを受け取るキャプテンのもう一方のごつい手が伸びて来て握手を求めながら言った。 「Have a good
trip in SANFRNCISCO !」
(サンフランシスコの旅を楽しんでくれたまえ!)
陽は西に傾き始めて、赤味掛かった光がハーバーを染めていた。
上陸は夢のようだった。 十数年と七十九日日の重みをかけた第一歩は、軽やかだったが、 少しよろけてしまった。
ハーバーマスターのよく冷えたビール半ダースのプレゼントと自分の船にあったバーボンウィスキー「アーリータイム」の差し入れは、
興奮と感激をいやが上にも高めてくれた。 どんなに望んでも得られなかったよく冷えたビールを紀子とむさぼ るようにして飲んでいる時、
ハーバーマスターは俺たちの書いて示し た福山のわが家の電話番号を国際電話局のオペレーターに告げていた。
「モシ、モシ、お袋かい ついに…ついにやったぜ。今、無事に シスコヘついた。」 「雅敏か。生きとったか。よう、やったのう」と母の声。
安らぎの夜が来た。
ゴールデン・ゲート・ブリッジに紅いナトリュウムランプのイルミ ネーションがついた。
街に灯がついた。
七十九日目。 揺れない船。
紀子
昨夜は一晩中強風と霧雨に悩まされ、シスコが手の届きそうな所 まで来ていながらこんな目に会うなんて神をうらみたくなった。
二晩も徹夜をすると、いささかグロッキー。 しかし、出会う船は客船や、トロール船でありシスコに近ずいた
という感じが胸の底にデン
と居座っているのです。
闇が白々と溶け、朝日が昇る。 お天気も今まで私たちを苦しめてきたのがウソのような穏かさで
迎えてくれて、夢にまで見たゴールデ
ンゲートが目の前に迫って来 た。
「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」の小説雪国の台詞では ないけれど、岬を回るとそこはシスコだったと、本当にそんな感じのする瞬
間でした。
ボニタ岬を左に曲がると、突然に赤い橋が私たちを迎えてくれたのです。 正午、橋を頭上に見上げながらシスコ湾へ静かに入港して
いった のです。
マストに星条旗、船尾に日本国旗をなびかせながら・・・・。
この橋をくぐった時、私の目的はもう無くなってしまったのです。 航海が終るからです。
帰りは一人で航海するという彼とは、一、二
週間の滞在の後に別 れなければならない。 彼に怒られるかもしれないけど、本当はもっと走っていたいのです。
陽がゴールデンゲートブリッジの向こうに傾くころ、私達のボルテ・ チノ号はセント・フランシス・ヨットクラブのあるハーバーのゲスト用の
桟橋に静かに横付けされたのです。
デッキからわずか三〇センチの下に、まごうことない動かぬアメリ カの陸地があるのです。
下りても良いのだろうか。
シスコ。
第一歩。 左足から下りる。
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