第950話〜第975話

海・千夜一話物語 第950話     二人ぼっちの太平洋 「はじめに」

 少年時代の夢はうつろい易い。

 太平洋横断の夢を描いて思いを重ね、友人と酒を酌み 交しながら法螺にも似た夢談議をし

ていると、話が次第 に大きくなって、ヨットの大きさも、十九フィートから 二十一、二十五、三

十、四十、五十と拡大されていった。

 時がたち、現実が見極められる年齢になると、五十フ ィートが四十、三十と小さくなり、友人

も″結婚″の二 字の理由で一人二人と減っていった。

一人執念の鬼と化した。

金が足りなくても、32フィートのヨッ トが安く作れるとすれば、これしかないと、白羽の矢を 立

てたのが、コソクリートのヨットであった。

 しかも 自作で、金具もマストも手摺りも手作りという事になっ たわけである。

 かくして、出発までに十三年の歳月が流れた。

 「港を出られたら、もう着いたようなものだ」と、その筋の人は言う。しかし、実際に出発してみ

たら、陸の 十三年より太平洋上の七十九日の方が永く感じた。

 尾崎士郎の(人生朋場)の中に次のような一節がある。

 「瓢吉!この木へのぼってみろ!」  「この木って、どれでぇ」  「銀杏の木だ」  「高くてのぼ

れんがえ」  「のぼってみんでわかるか、お父っつぁんが見とっ てやる、のぼれ!」  「やって

みんでわかるか。お父っつぁんが見とって やるから、やってみろ」 と言うのだ。

 この下りを読んで、父親、男親っていいものだろうな あと、つくづく思った。  その点、女親は平

穏を好む。

 自分の子供は日の届く所へ居てくれれば安心なのだ。

休日はほとんどヨットに乗り、しかも、何年も続けてい ると 「やっちもない (益体もない)事をす

るな」 と、ら ちも無い事の最たるものとして反対される。

 「健全なスポーツだ」と話しても、″ヨット転覆″の 記事等を見ては、「命を粗末にするのが何

がスポーツじ ゃ」 と反撃される。

 飛行機は墜落し、汽車は脱線し、船は転覆するものだ と思い込んでいる母親に、ヨットは安

全なものだ、転覆 しにくく、しかも、下に重りがついているからすぐ起き てくるし、凪が吹く限り、

どこまででも、走れる事を、 理解させ、ヨットアレルギーに免疫をつけさせようと苦心した。

 原子力潜水艦寄港騒ぎも、回を重ねる毎に 「ああ、またか」 の感がして、次第に馴れが生

じるように、私も、 この十三年間に機会ある毎に、ヨットの出国帰国、海外のレース、クルージ

ング等の雑誌やTV、新聞を見せた り、体験者の話しを聞かせ続けて来た。

 ついに彼女は出発が近ずいた頃、こう言うようになっ た。

「今更、行くなとは言わんが、早よう帰ってけえ」

 画家の作品は白いキャンバスに描いた絵である。

 私と妻は手作りの、しかも、満身創痍の(ボルテ・チ ノ) (蒼い狼号)を駆って、青い太平洋

上に(ハネムーソ航海)(復路、単独横断)の二つの白い大きな弧を描 いた。

 市井一介のヨット狂、石川雅敏のこれが作品 である。

 ″お袋は、勿体なルが、騙し良し"と川柳にもあるが 十三年間騙される真似をし続けてくれ

たお袋に、この作品を捧げます。

                                      1976年6月1日

コンクリートヨット・ボルテチノ号

 

海・千夜一話物語 第951話  二人ぼっちの太平洋 〔人生の船出=結婚そして出帆〕

 昭和五十年六月八日(日)

雅  敏  

ついにその日が来た。  昨日の雨が信じがたい程の好天気である。  

午前十一時から結婚式が始まり、あわただしく披露宴 を済ませて外へ出た。  

目と鼻の先にある仙酔島へは、通い馴れた市営の渡船 でわずかの五分であるが、

ソワソワと落ちつかない。  

友人たちによってボルテ・チノ号にはテープや万国旗 で飾り付けが施されてあった。

 桟橋の近くにある広場には「石川夫妻・ボルテチノ号 祝太平洋横断」とカラフルに

大事した横断幕が高々と掲 げてあった。

 「石川」の下に「夫妻」とついている二字が小恥しい 気持にさせる。

 親族代表や友人代表のアイサツがあり、新郎の胴上げ があったりで、駅のプラッ

トホームで見た光景を思い出 してしまう。  色々な人のアイサツで壮行式も済んで、

ホッと一息入 れてから桟橋へ移動する。

 飾り付けの終って、主を待っているボルテ・チノ号は こころなしかべッピンに見える。

 紀子と二人でヨットへ乗り込むと、間髪を入れずに友人の一人がエンジンを始動した。

 静かにヨットは仙酔島の桟橋を離れていく。

 投げ込まれた五色の紙テープが何十本ともなくからみ 合いながら伸びていく。  た

るんだ所が水につかって、一本また一本と紙テープ が切れる。  もう一本もテープの

繋りがなくなった時、思いっ切り ティラー(舵棒)を引いて大きく曲線を描きながら、見

送りの人々がいる桟橋へ触先を向けて近づいていった。

居合わせたボーイスカウトの少年たちも、わざわざ見 送ってくれる。

 お袋は大勢の人々の中に埋れるような小さな身体を乗 り出して、目をうるませなが

らハンカチを振っている。

 「元気で行ってきま−す」「石川−」「紀子さ−ん」 と人々は口々にさけん でいた。

 桟橋沖を名残りを惜しんでひと回りした後、見送りの人 々に向い、深々とおじぎをし

た。  これがこの世の見納め・・くらいにお互い思っていたか もしれない。

もう振り返ってはいけないと心にいいきかせながら、ボル テ・チノ号の舳先を沖合へ

向けた。

 仙酔島と本土の間に弁天島がある。  本土の人々には最後の別れのアイサツをし

ようと思い、 本土寄りにヨットを走らせた。  渡船のキップ売場のおばさんや、売店の

おばさんがし きりに手を振っていた。  海上保安署のランチもわざわざ見送ってくれる。

 ひとしきり伴走の後、ハンド・マイクで激励してくれ る。 「気を付けて行って下さい!」

 俺たちは深く頭をさげて応える。

   鞆を出港した多度津行きのカー・フェリーが擦れ違い ざまに「ブォープォー」と汽笛

で激励してくれる。  ブリッヂに立つ船員たちは帽子を左右に振っている。  俺たちも

ジーンと身体の内に熱いものを感じて、力一 杯に帽子や手を振り続けた。

 瀬戸内海の日没は早い。  夕日が水平線に近づくと没する前に島影がそれを隠して

しまう。  

 船腹に九十日分の食料や命の水をのみ込んだ(青い狼 号)は足が遅くなり、日がと

っぷりと暮れた頃、数隻の 漁船が引く網を引っかけないように右に走り左に走りな が

ら、網の囲いを脱して、午後九時ごろ、多度津港の桟橋へ接舷した。

 ここ多度津は、昔からの船の神様である金刀比羅宮、 俗にいう讃岐の金毘羅詣で

の寄港地である。 航海に旅立つ日の最初の寄港地には、金比羅に少しで も近いと

ころにしたかった。もう、直接参拝できないまでも、ここから、手を合わせておくだけで

も気が安まるものだ。

  桟橋にある一基だけの水銀灯に照らされて、ボルテ・ チノ号のマストが波でゆれ

るたぴにキラッキラッと鈍く光っている。

 いよいよこれから”二人ぽっちの旅〃が始まるのだ。

紀  子

 梅雨に突入といった感じの今日この頃、この快晴は私達二人にとって何よりも素晴ら

しいプレゼントであり、 人生航海の旅立ちに明るい希望を与えてくれる。

 さて、何から手をつけよう===。

 そう結婚式。

私は思っていました。二人だけで質素で はあるけれど充実した結婚式をしたいと。しか

し親、友 人に祝福されて胸一杯の幸わせを感じた時、私は私なり にこんな素晴らしい

結婚式は他にないだろうと自負して います。そしていまもペンを取りつつ思い出せば胸

一杯 に熱いものが広がり、恵まれた人生を素直に受けとめた いと思うのです。

 午後、披露宴の後すぐ、壮行式。きれいに飾りつけさ れたボルテ・チノ号。一段と頼も

しく見えますョ。

ヨッ ト仲間の暖かい応援がとっても嬉しい。

 午後三時出帆〃‥同乗した土井下、梶本両君の助けを 受けて一路多度津港へ。

夕日がとってもきれい!九時着。

乾杯のあと、ふたりは終便のフェリーで帰福。

 いよいよ、二人ぼっちの旅が始まると思ったとたん、 嬉しさに涙がこぼれ、旅立ちの

幸わせを改めて祈った。

 

海・千夜一話物語 第952話  二人ぼっちの太平洋  〔小豆島へ〕

 六月九日(月)

雅  敏

 午前中は船内のかたづけと足りない物の買物で過ごし た。

 正午に多度津港を出発して一路、小豆島へと急いだ。  

土庄港沖合で姫路の松下紀生さんと洋上ドッキングの 打合せができている。

 スピソポールの金具の到着が遅れたので、それを持っ て姫路からモーターボートを飛

ばして来て、洋上で取付 けてくれるというのである。  相変わらず風の無い土庄港沖合

に機走でさしかかると、 日の暮れかけた海面に波を蹴立ててモーターボートが近 づいて

来た。  そして接舷すると、乗せて来た発電機を始動し、電気 コードを伸ばして、ドリルと

タップマシソとを器用に使 って二人がかりで三十分位いかかってスピンポールの両 端に

金具を取り付けてくれた。

 彼らふたりは太平洋横断の体験者である。

 その彼らが、俺たちの不安を打ちはらうように 「さあ これでよし!頑張って行ってこい

よ!」 という言葉を残 して、手を振りながらモーターボートのスピードを上げて暮れかか

った空と凪いだ海の間へ消えて行った。

 今夜は小豆島の土庄港へ停泊だ。  ざっと十年ほど昔のことだが、いつかは自分も太

平洋 横断をやろうと思い訓練のために自作したY−19級(ブ ルーメリア号)に友人二人

と乗り込み、ビクビクしながら やって来たクルージング始めての島である。

 島の観光を終え、くたくたに疲れてもぐり込んだ狭い キャビンの中で、男が三人ラジオ

から流れる歌に耳を傾けた。

 土庄の港の入口は狭い。  帆を下して壊走でやり過ごした連絡船の後から入って行く。

 奥にあ る機帆船の溜り場へヨットを入れた。  上陸して、それぞれの家族に電話すべ

く中央桟橋の近 くまで公衆電話を探して歩いた。  桟橋の入口に電話ボックスが見付か

った。  家族に言うべきことといって、別に何もないのだが、 ただ、どちらも、俺達が小豆

島にいることを話したかっ ただけだ。

 ボックスのすぐ前には 「二十四の瞳」 の銅像があり、 小豆島のロマソを語りかけてく

れる。

 

紀  子.

 六時起床。荷物が多くて片付けるのにうんざり。ベッ ド数は四と人さまにはいってるが、

設計図上での話であ って、ダソボール箱が数個あればもう私たちのいる場所 がない。

まあ我慢しよう。私たちの荷物というより、荷物あっての私たちなのだから…=・。  

三洋汽船の乗り場で自転車を借り、買物に行く。

店の おばさんが「新聞に出てたよ」と言って記事を見せて下 さったが、気恥かしい。

 十二時三十分、多度津をあとにする。

太陽は輝き、波 なく見なくと順調な航海。

 明日はいよいよ鳴門海峡を通過する。

 気を引き締めなくちゃ。

 

海・千夜一話物語 第953話  二人ぼっちの太平洋  〔鳴門海峡を越える〕

 

 六月十一日(水)快晴

雅敬

 港の朝は早い。  午前六時。静かな港内にディーゼル・エソジンの音を 響かせながら、

引田港を出発した。  スピードメーターの調子が悪いので、大鳴門までの所 要時間の計算

がうまくできない。

 潮汐表によれば、九時半が転流時となっているので急 がねばならない。沿岸に沿って機

帆走で進む。 かなり本船航路に近づいた時、その船の行先に目を向けると、逆光で黒ぐろ

として溶け合い重なり合っていたひとつの陸地の影 がふたつに分れて、そこに大鳴門の口

が開いていた。

 鳴門海峡は最速潮流が十ノットにも達するので、逆潮では駿足な船でないと通れないが、

連潮でも通れない。 それは、大渦ができそれに巻き込まれる恐れがあるから だ。 そこで

満ち潮と引き潮の間に一時間ほど、潮流が止まる、つまり転流時をねらって通過するので

ある。

その転流時をねらっているのは俺たちのヨットだけではない。 本船が何隻もこの時をねら

って、この海峡へ殺到して くる。そして手を伸ばせばあたりそうなところまで接近 して、追

越して行くので、気が気ではない。

数年前、座礁して半ば沈没した中国籍の鉄鋼材運澱船 18 へ建設号)の残骸が航路に迫り、

この狭隘な海峡をさら に狭いものにしており、また一部の潮の流れを阻み、潮 流をより複雑

なものにしている。

何とか無事に難関を通過し た。 海峡を過ぎれば、潮の流れは拡散して、急に速度を落 す。

一か月前の四国一周ひとり旅の時、海路立寄った徳島 や小松島、椿泊沖を下げ潮に乗って

機帆走でしごくノン ビリと漂い、かつ流れるように通過して、青海亀の産卵 の地として有名な

徳島県の蒲生田崎にさしかかるころ、 陽は西に大きく傾いていた。  

この蒲生田崎と伊島の間を抜けた時、希望と不安をのんだ太平洋が視野の中に大きく迫っ

て来た。 太平洋の海面はさすがに大きくうねっているが、推進 力になる風がない。 二か月

以上も陸を見ない旅を始めるに当って、このまま出ていってしまうには何かふんぎりがつか

ない。

家族の者にいいわすれていることがあるような気がする し、何か買いわすれている物もあり

そうな気がする。

 陸に対する未練が断ち切れず、夕暮時の船出は不吉な 予感がするし、気も滅入る。  

風呂につかりたいし、うまい物も納得いくまで腹一杯 くっておきたい。  

「え−い、ままよ。どこかで、もう一泊しよう」 と決めた。

陽は山の端を赤く色どりながら消えていった。  最後の一泊は、少くとも太平洋沿岸の港に

したい。たとえどこの港にしても、入港は夜になるので、地理に明 るく、港の構造のよくわか

ったところでないと夜間の入港は危険である。 そこで、かつて一度入港して記憶のまだ新し

い日和佐 の港を選んだ。

 日和佐の駅に通じる道路の真中あたりに、公衆電話ボック スが薄暗い螢光灯の光を放っ

ている。

 二人で持ち合せの十円銅貨を出し合って、家族に、日和佐港へ無事到着の電話をした。

 意外に元気そうなお袋の声を聞いて、安心してヨット の.バースへ横になった。

紀子

 昨夜、横付けしていた漁船が五時に出るというのでそのつもりではいたが、ドンドンと窓を

叩く音で目を覚ま し、時計を見ると、なんと四時四十分。朝まるで弱い紀子にしては、まこ

とにつらい。とにかく、第一の難所鳴 門海峡を九時に通過しなければならないので、ボヤキ

を ぐっと飲み込む。

その速い潮の流れと危険さを暗示しているかのような 沈船(中国籍)の傍を、九時二十分無

事通過、ホッとす る。

このまま、いい気持で、最後の寄港地である日和佐 に直行。風は順調だし、舵を持つのも何

か心楽しい。  陽が落ちて、日和佐港に入る。

そう、この日和佐は彼 との想い出の場所なんです。今年五月のゴールデソウイ ークに、太

平洋横断を胸に秘めて、彼が単独四国一周に 挑戦した時、私がほんの一部分だけど、宿毛

の突端にあ る柏島からまる一昼夜高知沖を走り、日和佐で下船したのです。それが今日のこ

の日につながっているんです。

 ランプの灯に照らされた船内で、ギターを弾く彼を頼 もしく感じる私です。

 

 

海・千夜一話物語 第954話  二人ぼっちの太平洋 「13日の金曜日」

 六月十三日(金)雨のちくもり

雅敏

 なんと今日は十三日の金曜日である。

 迷信を信じゲンをかつぐ人にとっては今日ぐらい出帆 に悪い日はないであろう。

これで黒猫が前を横切ったら 卒倒しかねない。  西洋では縁起の悪い日として、

一番忌み嫌っているの がこの日なのだ。  しかし、西洋の迷信に俺たちまでが

左右させられるこ ともないものだと考え、今日を太平洋横断の出帆の日と 決め

てしまった。  

迷信は信じない者こそ救われるのだ。

 縁起の悪いのはむしろ昨日である。

出港間際に、プロペラにロープを巻きつけてエンジンがストップしたので、潜って

船底を掃除したら疲れた。

 陸への未練も有って、もう一泊しようと言う事にして、1日出発を延ばしたので

今日は是が非でも出港しないわけには行かない。

 午前8時、エソジソのクランクを手で回して始動にか かる。カを入れてグイグイは

ずみをつけておいて圧縮レ バーを倒す。しかし、すぐに止ってしまう。一度日は駄

目。二度目も駄目だった。  だんだん息が荒くなり、脈拍が増えて、額に汗がにじ

でくるころ、やっとエソジソがかかった。あい変らず大 きいが、しかし快い音があた

りに響き渡った。  もう雨は止んでいる。  クラッチをバックに入れる。  ヨットは静

かにバックして岸壁を離れた。  

モータースの江元さんも奥さんも徳島新開の記者も手を振っていた。

 「さよなら!」  紀子も目を潤ませながら、力一杯手を振っている。

 海亀の産卵の街、日和佐より俺たちの太平洋横斬はノンストップでシスコを目指

した。

紀子

 酔ばらった、酔ばらった。  太平洋へ出発の第一日目にしてメロメロ。

胃の中味を 全部吐き出しても気分が悪く、一日中ごろごろ。旦那様 から予定が狂

ったとボヤかれる。予定では昼は私が舵を 握り、夜交替ということであった。この調

子だと日記を 書く時間まで相当工面しなければ…・。

本日は二人とも 食欲なしで食料と手間が省けて助かっちゃった。

 

 

海・千夜一話物語 第955話  二人ぼっちの太平洋 [嵐の前兆におびえる〕  

六月十五日(日)くもり…

雅 敏

 前線の影響下に入ったのか、かなり風がきつい。  何もかも初体験なので、極度にリーフ

 (縮帆) して走 る。

 落ち着かない不安定な精神状態で、中途半端に聞いた ラジオの天気予報で 「低気圧が

近くに居て更に接近中」 と思い込み、東風を受けて北へ南へと右往左往する。  

これでも相当走ったつもりでロランを使って位置をチ ェックしてみると、ほとんど進んでいな

い。ゆううつだ。  ロランがおかしいのではないかとふと思う。扱いの習 熟に時間のなかった

ことを悔い、前途に不安を抱いた。

 シケるかもしれないと思い、嵐のための準備をする。  用人棒(ウインド・ベーン)を抱きか

かえて引き上げ、 デッキ上に横にし、スターンパルピットとスタソショ ソにロープで固定し、

ビニールポートもキャビソトップ にくくり付け、シーアンカーをいつでも投入できるよう にロー

プを取り付けて、それに緩衝用の自動車の タイヤを結びつけておいた。

 コクビットにある水入りのポリタンクには、把手にロ−プを通してサイドデッキのスウォート

を経てスタソシ ョソへくくり付けた。船酔いで弱っている身体で忙しく 動きまわったので、一

段落したらへナヘナとデッキの上 に座り込んでしまった。  その時、ヨットにはズブの素人

である紀子が「舵は私がとるから、今の内に寝ておいて。体力をつけておいてね」 といった。

 暗黒の海は静かで、かえって不気味だ。  時は過ぎて行くが、いつまでたっても嵐の兆候

はない。  しかし、この静けさこそ 「嵐の前の静けさ」 にちがいないのだと怯える。

 風はさらに衰え、海は黒い静けさをより深めていく。  「うん、これぞ、まさしく大シケの前兆

なり」  そう考え始めると恐怖で胃袋がキューンと締め付けら れるような痛みを感じ、のどを

通るものは一粒の米さえ も無理といった感じになるが、体力をつけるために無理矢理乾パン

をジュースで胃袋へ流し込んだ。

吐いてもい いから、ほんの数秒でも飲み込んでおかなくてはならない。

 ふと陸のことを考えた。  「まだ本土は近いぞ!今なら何とでもなる」  そんな逃げの気持

は恐ろしい。

 

紀子  

雨が降って、慣れない雨合羽が気持悪く、日記を書く だけの元気なし。

 

海・千夜一話物語  第956話     二人ぼっちの太平洋 〔漁船に手紙を託す〕

 六月十六日(月)くもりのち晴

雅 敏

 十七時ごろ、海は完全に凪いでしまった。  (ポルテ・チノ号)はなす術もなく、

ノッペりとした うねりに翻弄されながら、ゆらりゆらりと漂っているだけだ。

陽の 当らないクールなキャビンの中で一息入れることにした。  ところが、パー

スに横になり仮眠をとろうとしている 時のことだった。「オーイ!」 という人の声

がした。も う幻聴が始まったのかと一瞬耳を疑った。そして紀子に 「何か言った?」

 と聞いてみた。  その時、外でもう一度声がしたので、二人共急いでコ クビットへ

出て見ると、二〇〇トソぐらいの鋼鉄製の漁船らしき船がスターソの10メートル後に

侍っており、 六、七人の日焼けした人がデッキに立って一様にこちら を見ていた。

 キャビンに入る前、四周を見渡した時には一隻一片の 影、流木さえ視野には入ら

なかったのに、海から湧いたのか天から降ったのか、まさに本物の船と出くわしてピ

ックリしてしまった。

 頭に手拭いを巻き付けたオッサソが 「ええ事しとっ たじゃろ」 とひやかした。

 船長らしい人が「どこへ行くんじゃ?」 と開いて来た。

 「ア・メ・リ・カ!」 とさけんだら今度は皆なキョトンとしてしまった。

 しかし、考えてみると久しぶりの人間との会話である。 やはり人間と話せるのが一

番うれしいのだ。さて、この邂逅を何とか生かしたいと思って、すぐ紀 子に家族宛の

手紙を書くようにいい、彼女が頭をひねっ て通信文を書いている内に、俺は現在位

置の確認をして 欲しいとお節いして、ロランで位置を出してもらった。

上下する船同志が接近しすぎると接触して危険なので、 手紙はボート・フックの先

に封筒をくっつけて船員に手渡して、どこからでもよいから陸へついたらポストへ投

函してくれるようにとお願いした。

 やがて 「がんばれよ!」 と海の男たちは口々に声援し ながら手や手拭いを振

って去って行った。

 白いウエーキを残して去って行く船のスターソには白 い大きな字で(岩城市 永

勝丸)と書いてあった。  永勝丸が水平線のむこうに消えてしまったら、周囲に は

人間の匂いがするものは何にもなくなってしまい、ま たふたりぼっちの世界がかえ

って釆た。

 凪いで五時問にも及ぶと、海面には波ひとつなくなり− 鏡のように研ぎ澄まされ

てゆっくりと上下しているだけ になる。まるで海が安らかに息をしているようだ。

 永勝丸が人恋しさを残して去った海面に、雄大にして 荘厳なまでに美しい太平洋

の落日を見て、二人共感傷的 になってしまった。

 朝日は士気を鼓舞してくれるが、夕陽は淋しさを誘っ て船も気分もそこに釘付けに

してしまうようだ。

先ほど永勝丸に手渡した手紙が、お袋の所へいつ 頃着くのだろうと考えながら、西

の空や海をしばらく、 ながめていた。

 星もいつも見慣れている星より数倍美しく光を強めて降り注いでいる。

 よく見るとこの星の一つ一つが海面に写っているのだ。  満天の星の下で、雲海な

らぬ星海にヨットは揺れている。

 美しいというより見の吹かない魔の海域にでも入り込 んだのかと、むしろ恐怖をお

ぼえた。

 えゝい!いまいましいべタ凪よ!  風よ吹いてくれ!

紀子

 前夜二十三時から今朝六時三十分までワッチ (見張り )する。一人ぼっちで舵

を握るのが長時間すぎて、肉体 的疲労が激しく、この先の杭海が思いやられる。

 雨がザアザア降る真っ暗闇のなかで、一人冥想にふけ る。私はいま太平洋の

真っただ中にポツンといるのだが、 本当にこれでよかったのだろうか。

昨夜、彼は 「後悔し てないか」と開いた。だが、船の生活が嫌になったり、 引き

返そうとは思わなかった。けれども、一諸にアメリ カへ行こうと話し合った時、もっと

よく現実を見極める べきではなかったか。彼の十年間にわたる準備と、私の たった

三週間の間の決意、その精神的な面の一致、一体 とならせるものをもっと考えてよ

かったのではないだろ うか。

 昼過ぎから全く凪が無くなり、彼はイライラ。私はキ ャビンの中で整理と昼寝。

 メモ書きした封筒をことづける。

「元気です」 とだけ書いてある手紙を、彼の お母さんはどんな気持で読むだろうか。

 朝食 ビスケット、ジュース  昼食 なし  夕食 鳥めし (缶詰)

 

 

海・千夜一話物語 第957話     二人ぼっちの太平洋   〔霧が晴れない〕

 六月十九日(木)

雅 敏

 湿った南西の風によって発生した霧が日が変っても一 向に晴れる様子もない。

 たとえ霧の中であれ、風さえ吹けばヨットは帆に風を 一杯はらんで快走するが

今は目隠しされて走っているよ うなもので非常に危険を感じる。霧の中では風が

吹くの はむしろ有難迷惑だ。  そうかといって止ってじっとしていれば安全という

も のでもないので、運は天に任せておいて、せっかくのこ の風をもらって距離を

伸ばすことにした。

 しかし困ったことに、真夜中を過ぎるころ、睡魔がおそって来た。

 永年の習慣で、「11PM」を見終ってから寝ることに しておいたものだから、時

計の針が零時を回るころから 急に眠くなって来た。  そうかといって、船のエソ

ジソの音とか霧笛が聞こえ るかもしれないので、眠気醒ましにラジオさえかけら

れ ないのが非常につらい。

見張りに立っていると、暫くすると頭の髪の毛やヒゲに ペットリと水滴がつき、ポ

ツリポツリと下へ落ちるのだ。

 見上げるとマストトップ・ライ寸が斉のベールに包ま れて白い光芒を投げかけ

ている。まるで神々しい聖火の ようだ。

 「神様!くじにも競馬にも当らない私です。どうか睡 眠中に本船に当てないで

ください。」

 船酔いの回腹の遅い紀子は、食っては吐いて寝、吐い ては食って寝る毎日で

ある。

 可哀想だが放っておくより他に方法はない。ただヨッ トの揺れる生活とリズムに

馴れるのを待っだけが唯一の方法なのである。

 コクビットに座って、海、空、雲、波をぼけーと眺め ながら昼食後の休息をしてい

たら、ふと、お袋の握りしめた白いハンケチと「早う帰ってけ−よ」といった声を 想い

出した。

 生か死か定かならぬ太平洋に一人息子を送り出さねばならないお袋の胸中がわ

かるだけに、涙ぐんでしまった。

 

 

海・千夜一話物語 第958話     二人ぼっちの太平洋 〔雨水を溜める〕

 六月二十日(金)

雅 敏

 昼前、寒冷前線下で雨が降りだしたので、バケツとか 洗面器を総動員して水集め

に苦心した。

 雨水で作る紅茶は乙な味である。

 前線が通過したら、風が南西から急に北西にシフトし ながら力を弱めていった。

 海面には今までの波と凰のシフト後の波がぶつかり合 って三角波が立って来た。

 波はそれほど大きくはないが、微風にはセールを押し続ける力もなく、ヨットのセ−

リングでセールから風が 逃げるので走りにくい。

 コースは南東にとってステアリソグは(用人棒)に任 せてしまうと、キャビンの中で

何もすることがない。

 ギターを爪びいて歌謡大会を開いた。 

 揺れるキャビソの中では、むしろ童謡ならぬ動揺大会 の方がふさわしいようだ。

紀子

 雨と風に見舞われ、船の揺れが辛くて日記も書く元気 がない。彼に 「船酔いはすぐ慣

れる」と励まされても、 九十日間この状態が続くのではと、悲しく辛い気持でい っぱい。

 

 

海・千夜一話物語 第959話     二人ぼっちの太平洋 〔デッキは物干場〕

 六月二十二日(日)

雅敏

 二日前に雨が降ってからずっと曇天が続いて今朝また 雨が降った。

 船内はどこといって、まともに乾いた所がない。  穿いたGパンを初め靴下類、ビニ

ールのパース(寝台 )、そして天井とあらゆるものが湿っている。

 天井のマスト・サポート金具のところからは雨漏りま でしている。それがポタリポタ

リと落ちて床を濡らし、 拭き取っても際限がない。

まだ真直ぐ落ちて床を濡らす のは我慢出来るが、ローリング(揺れ)する勢いで左右

のパース(ベツド) を直撃したりする。

ヒール(傾く)して走っていると、 風下側のパースに横になっている者こそ哀れである。

 

海・千夜一話物語 第960話     二人ぼっちの太平洋 〔舵が壊れそうだ〕

 六月二十五日(水)くもり

雅敏

 ラダー・シャフトと軸受用チューブか取付金具との問 に生じたらしいガタによって

起こる衝撃音が日増しに大 きくなったように感じる。

 ガターン!ゴーン!ガタン!ドーン!

 この音が心意に突き刺すように響く。

 海が凪いでくれないと、潜って修理はおろか点検さえ 出来ないので気持が休ま

る時がない。

 波は大きくふくれ上がり、盛り上って迫って来る。ヨ ットはその山によじ昇り反対

側の斜面をサーフィンのよ うに滑り下りる。一度などは滑り下りる時コースが急に

変わりかけてワイルド・ジャイブをするところだった。

 その都度ラダープレード(舵板)に水圧がかかりロー プで固縛したティラーが左

右へ動く。 叩きこんだキーが 何万回という振動で‥徐々に磨耗によるガタかも知

れな い。

 とにかく、点検の野為に早く潜りたくて気も狂わんば かりばかりである。

 もしラダーが利かなくなったり、セメントのスケグが 破拐でもして救助を依頼する

ことになったら一体どうし ようか、と紀子と話し合った。

 挫折となったら、俺のヨットにかけた十年の青春は一 体何になるのだろう。

「大丈夫よ!神さまが守ってくれるわ」  ヨットのことは何も知らない紀子が、サラリ

と慰めを いってくれる。  その言葉もなかば信じてみると気持が静まってくる。

紀子

 うねり高し。何もすることなし。体がだるい。何もし たくない。食事も欲しくないし。

彼の体力をつけて おかないといけないので、仕度だけは辛うじてする。  もう、何

日も食事らしい食事をしないし、食べても、 気前よく魚に餌を与える私なのに、トイ

レは行きたくな るのが不思議。

私は女だから よいけれど、男の場合は不名誉という落印が一生ついて 回ると情

けながっている彼。そうなったら、福山にはも う住めないと…。  彼の沈痛した顔を

見ながら、ふと一諸に悲しんでいるのは今の私の役目ではないと考え、元気つけよ

うとがん ばる。

改ためて、もし何ごとかがあれば彼と一諸に死ん でもいいと覚悟を固めた。

 

 

海・千夜一話物語 第961話     二人ぼっちの太平洋 [太平洋プールで泳ぐ]

 六月二十七日(金) 

雅 敏

 昨夜、足元の棚の上に取り付けてあるカレンダーを見 て紀子が気弱に泣いた。

時の立つのがあまりにも遅いと いい、今日でまだ二週間しか経っていないといっ

て泣い た。  海での一日は、当り前のことだが、本当に二十四時間 もあるのだ。

 陸の上では、喫茶店でコーヒーをすすりながらとりとめのない話をしていても、

一時間や二時間はすぐ経つし、夜はテレビのスイッチを入れておけば何の気苦

労もなく知らぬ間に四、五時間はすぐ経ってしまう。  布団にもぐり込んで、白河

夜船ときめ込んで前後不覚 に眠っても、本船に衝突されて放り出されて海の上

で目醒める心配は更にない。

 海の上では、本船を見張るために交替で起きてワッチ をするので、一日中どち

らかが目を醍していなければならない。

 感覚的な一日とは目醒めてから夜、眠るまでであるから、陸上でのそれは短く、

航海中のそれはずっと長く感 じる。

 時の重味と遅延に対するいらだちも、俺の方は早い時期にやって来て通り過ぎ

ていった。

 妃子に比べれば、海上での生活体験では一日の長があるのだ。

 今は諦観の上に立って時間のやりくりをし、時の流れを見送っている。

 だから、メシも美味しく感じるように なった。 昼のラーメン、夜のチャーハソ (缶

詰め)。どれも最後の一滴、最後の一粒まで美味しい。 気が落着いていると、久

しぶりの読書も楽しい。この 分では、もう少し小説頼も持込めばよかったと航海

なら ぬ後悔をした。 まさか、ローリングやピッチングするヨットの中で読書が出来

るとは考えても見なかったし、色々なヨットの航海記を読んでもその事が信じられ

なかった。揺れるキ ャビソの中で読書が出来る人は、それを特殊技能としてメシ

が食える人ぐらいに思っていた。

 夜間に三回ほどセールの.バタつき船の振動のリズムが変ったので目が醒め、

デッキに出てコースを修正すべ く用人棒(自動操縦装置のあだ名)のセット調節

作業を行なった。

 快晴と良風を約束してくれそうな夜明けを迎え、東の水平線の一角を突き破っ

て陽の光が射して来る頃、また風向がシフトしたのでついに四度目の調節をした。

 「神さま、どうか早い内に一日 (それ以上は困ります が)凪を下さい。潜って

早くラダーと船底の点検を したいのです」

 祈りが少しは通じたのか、風力はやや衰えたようでも あるので、疲はまだ少し

あるけどチャンスだと思って、 シーアンカーをヨットのスターソから引いてスピード

を〇・五ノット位いに落しておいて、潜ってみることに した。

 太平洋プールに置き去りにされたら大変なので身体とヨットを10メートルほど

のロープで繋いでおいて、マスクとスノーケルをつけフィンを足に着けて飛び込ん

だ。  サメを警戒しながら、ラダーのところまで潜ろうと試 みたが、波で上下す

る船底に頭をたたかれて目の焦点が定まらない。少くともスケグの破損やラダー

取付金具の脱落と大きなガタは無さそうだという事を確認するにとどめておいて、

早々に船の上へ這い上った。

 相変らずラダーのゴーン、ドーソという音は止まない。 しかし、たとえラダーが

壊れても横断はやりとげてみせるぞ!

紀子

 お天気がよくて風が良いと用人棒のごきげんうるわしく、私も彼も何もすること

がない。ギターをガンガ ン鳴らし、大声で歌を歌う。

料理をするのが大儀になってきた。私一人だったら少々の空腹ぐらい我慢する

のに ・・・。 ラダーのガタが気になる。

「ドーソ、ドーソ」 と太鼓 を打つような音がどうしても気になり、彼はついに、太

平洋プールに飛び込む。しかし、うねりがあって思うよ うな作業が出来ず、あき

らめて凪を待つことにする。「 この状態で行けるところまで行こうヨ」  

 ドライシャソプーで洗髪を彼にしてあげる。

「この世の中にはこんな便利なものがあるのか」 と変な感心をしながら、満足

そうである。

 福山を出帆して約三週間。太平洋へ乗り出して二週間である。

「成功とは耐えることなのネ」 と思わずにはいられない毎日である。

西日がキャビンの中へ差し込んで来て暑くて死にそう。額から汗が流れ、顔が

ジトジト。しかし、夕日が沈むと、急に涼しくなる。

とにかく耐えるのみ……。  三時ごろ、リベリア船籍の船が傍まで寄ってきた。

でも、うねりが大きいので近寄れず、手を振るのみ。

水が欲しい。  朝食 ラーメソ  昼食 ホット・ケーキ  夕食 スパゲティ

 

海・千夜一話物語 第962話     二人ぼっちの太平洋 〔鳥をつかまえた〕

 六月二十八日(土)

雅敏  

 風と同じ方向に帆走中は、キャビンの中へ風が入って来ない。そこを狙って、

西日が情け容赦なく入 り込んでくるので、まるで蒸し風呂に入っているように

汗が吹き出る。

 俺はパンツ一枚になってゴロンとバースに引っくり返 り、「掻き氷が欲しい!」

とか「シャーベットが欲しい !冷えたビールが飲みたい!」とか怒鳴るのだ。

 その内に日が暮れて来て、まだ日がある内に夕食とい う具合になるのだが、

今日はまたまたハプニングが起っ た。

 18時過ぎ頃のことだが、紀子が夕食後ゴミを捨てよう うとハッチからデッキへ

出た途端、スタンパルピットに 黒い鳥が止っているのを発見して「キャッ!」と叫

んだ。

鳥もピックリして「ギャ!」と声を上げた。

 しかし、人間の恐ろしさを知らないのか社交的なのか逃げようともしない。

 俺は揺れるデッキの上をヨタヨタしながら近付いてい き、ここぞと思う位置から

狙い定めて飛び掛かりひっつかまえてやった。  さすがに捕われの身は嫌いら

しくギャーギャーI鳴きながら俺の手に噛み付くが、犬や猫ほどの痛みはないの

で我慢して握りしめておいて、羽根のつけ根をロープでく くり付けてからコックビ

ットへ放した。

 食料もたっぷりあるし、おまけに焼鳥の缶詰も持ち合わせているので、こいつ

を喰う気は今のところ起こらない。  いらぬ殺生を避けて、明日じっくり観察して

から放してやろうと思う。

 こいつも好運な鳥だ。俺たちに食料が不足し始めてい る頃なら、こいつは俺

たちの胃袋の中だ。その時はこの親善訪問はとんだ命とりになっただろうに…。

紀子

 お化粧をしたのは何日ぶりかしら。朝食をすませ、いまは九時。ペットに横た

わり、波に身をゆだねながら、お化粧をしてみた。

新妻は素顔を夫に見せないようにと週刊誌には書いてあったけれど、いまの

私は日に焼 け、真っ黒い顔をさらしている。

 目をポイントに、口紅を塗っただけだが、美しくなっ気がする。やはり女なん

だなあ。

 シスコに着いた時、国際電話するのに日本では何時かなと話し合う。8時間

時差なので、夕方着いたとすれば日本では午前中。お母さんは洗濯物を干し

に物干台へっているころ。

 二十回以上ベルが鳴ってうるさいなと思いながら、受話器を取ると地球の裏

から電話、なんて早く実現させたい。

 午後力ーテソを一枚縫う。生地は買っておいたが、縫 う時間もなかったし、ど

うせシワになるのだから、その時 にでもと考えていたのだが、裁縫箱を開けて

驚いた。何 と糸がないのだ。母に頼んだセットだが、しつかり者の 母らしくない。

今ごろ気がついて、妹と話題にしていることだろう。糸は偶然というか、布を買っ

た時、レジのところにたまたまあったので買っておいたので役に立っ た。本当に

神に感謝したいと思った。

一瞬背中が寒くな る思いだったんですもの。  朝 ラーメン

 

海・千夜一話物語 第963話     二人ぼっちの太平洋  〔初めての天測〕

 七月一日(火)

雅敏

 久し振りにエンジンを回して、バッテリー・チ ャージを試みたが、果たして出来たかどかは

疑問であ る。電圧が上がらないのだ。

 ロランはというと、三、四日前から入力信号が徐々に 弱まり今日は識別不能になった。

 このロラソの購入に閑しては、幸運がついていたとしかいえない。  新品なら五、六十万円

もするものだが、中古の中のポ ソコツ寸前という俺のロラソは、探しに行っても無いと思 って

いた隣の町の尾道市で、しかも他の用事で行ったついでに電話で問い合わせた二軒日のある

電気屋さんにあった。そこの人の好意で格安に(二万四千円)譲っていただいた物だ。おまけ

に 調整はいうに及ばず、予備の真空管五、六本と海上救命灯ネプチユーソを二個プレゼソト

して下さった。  しかし、使い馴れ、馴親しんで来た物が使用出来ないと なるとショックである。

 半壊ロランのその原因がわからぬまま、万が一のこと を考えて、天測をしてみた。  天測も

やった記憶にあるものは三年も前のことである。 昔とったきねずかとやらで悪戦苦闘しながら

何とかやってみた。

 ロランは入力信号が徽弱なので昨日は位置を出してない。そこで昨日と今日の二日分の推

測帆走距離を計算してから天測に必要な今日の推定位置を出した。  これをもとにして天測

計算をしてみると答の修正値が 推定位置から北東76度32.8分の方位で56.8マ イルと出

て来た。 つまりそこにボルテ・チノ号が居るというのだが、修正値があまりにも大きいので完

全にこの結果には落胆してしまった。   

 夜を待ち、午後五時過ぎ、今一度ロランのスイッチを入れてみたら今度ばどうだろう、確かに

信号が強く入ってく るではないか。

 ただのガラクタに化したポソコツロランなら海へ捨てようと思ったが、先を急がなくてよかった。

 さて、昼間した天測の結果をロラソでチェックしてみるとどうだろう、ドン・ピシャリ合っていた。

  「おー神さま!あまり多くの喜びを一度に与えないで下さい。気が狂いそうです。まさか、

うれしがらせて泣かせて消えるのでは無いでしょうね。」

紀子

 「高気圧の真ッ只中にいる」 という彼。お天気はあく まで快晴。風はなく、暑さに少々閉口し

ている。

午前中 はよく働いた。まず、セールをたたみ(これ、重労働な んです) トイレの中味を放出。

最初、トイレはたれ流し になっているのかと思っていましたが、何とタンク式で 凪に近い時に

中身を捨てるのです。

彼は大、小とも外で済ましているので、いうなれば全部私の身体を通り抜けた廃物という訳。

「ノリのは臭い臭い」 といいながら彼は掃除。  白い帆に風一杯はらんで、白波をあげなが

ら快走する ヨット。

 ロランの調子が悪く、天測をした彼は、計算するのに一苦労らしく、本を何冊もにらめっこ。

一時間近くもかかってやっと出た答は、「ウーン、昔とったキネズカ、素 晴らしい」

三年前、天測勉強のため、ポルネオ往復の貨物船に乗ったんだって。

ロランの方は日中は電波が弱 くなって届かなかったらしく、夕方日が落ちて測るとバ ッチリ。

故障でなくて本当によかった。

 カレンダーの絵が変って今日から七月に突入。

「福山 に帰りたい」 なんて弱気にはならなかったけど、なんとなくつらくて泣いた。

でも、今日からは気分一新してがんばろう。 朝食 ラーメン  昼食 ご鹿、焼肉 (缶詰)

 

海・千夜一話物語 第964話     二人ぼっちの太平洋 〔都々逸を作った〕

 七月二日(水)くもり

雅敏

  眠いし左半分の頭痛がするのでそのまま横になりコー スのチェックも怠けてしまった。

 ザザー、ザプンと船底を走る水の音の割には艇が滑っいない。相当量の附着物が船底

についているのだろう。

 キャビン(船室)の天井に押ピンで止めたヌード・カレンダー昨日、月が変わったので一

枚めくってカワイ娘ちゃん の新人登場である。 そして、その七月の日付けにも、もう二つ

×印がつい た。

 近頃では締めからか、それを適応と呼ぶのか、以前のように一日一日を敵対するが如

く意識してぶつかり、そ強さと大きさに打のめされて敗北と無気力感に陥るというような

愚はどうやら避けられるようになって来た。

 何の変化や行事があるわけではないが、一日でなく一間単位で時の流れを見ることが

出来るように変って来た。 そんな遅々とした時の流れに身を委ねて、ふとした思 い付き

で都々逸を作ってみた。

  時の流れと 帆に吹く風は   俺のカで 変りゃせぬ

  何をバタバタ ヨットのセール  風は吹くまで 待てばよい

  主と朝寝は いつもの事よ   妬いて差し込む 日の光り

  船のパースに 寝ころぶ二人  揺れる度毎 肌が合い

   二つのパースに 別れて寝ても  同じ枕の シケの朝

  船は帆まかせ 帆は風まかせ   風は自然の 気にまかせ

 

紀子

 おっぱいを自慢気にさらし、悩ましい肢体でポーズしている写真付きのカレンダーを、

自分のパースの天井に張りつけ悦にいっている彼です。

今日で太平洋へ乗り入 れて二十日目。他の横断記録を参考にして、日付変更線 通

過を推定して二十一日に○印をつけた。

それより早け れば、狂喜するだろう。  日記を書きながら、カーテソを縫いながら、本

を読みながら、フッと天井を見上げて日付を見ている私です。

 昨日、バッテリーの充電をしたが、思うほどできず、 二個あるバッテリーのうち一個

は塩の影響で使いものにらないということ。ハムの交信をするように何度も彼 にいった

が、あまり乗気でない。アソテナの調子が悪い といっていたが、こうなってくるとあまり

電力を使えず ロランだけにしぽることにする。

 みんな心配しているだろうな。九十日間の予定といっ ておいたので”捜索頃願いは

出さないだろうけど。

朝食 ご飯、みそ汁  昼食 ご飯、赤貝の缶詰  夕食‥焼ソバ

 

海・千夜一話物語 第965話     二人ぼっちの太平洋 〔節電令〕

 七月三日(木)くもり

雅敏

 今日も依然として1025ミリ.バールの高圧帯の中にいる。  空には一面に雲が広がり、薄層

を破って時々日が射す程度だ。 風力は弱い。  スターボードサイド (右舷) の天井に西経1

0度まで印刷されている天気図用紙を張り付けておいて、それに毎日正午のポジショソをプロ

ットして航跡を印すこと にした。

   昨夜、金星と北極星のスターサイトをやって見たが、 バッテリーの電圧低下と発電機不良

のトラブルが起こり 出したので電気節約令を発した折でもあり、計算の方は 今日の日中と決

めていた。これは自分の腕だめしなのだ から、それほど急がない。  

 天測歴と天測計算表をにらみながら答を出して見ると、 昨日からわずか60マイルしか走っ

ていない。

 揺れるヨットの中では思考力が落ちてくる。その上、 数字の羅列した表を使って計算するの

は頭が痛い。そこで計算が間違っているのだということにしておいた。

 紀子が、気をきかして日和佐で買い込んだ夏みかんを むいでくれた。  

平素、さほどうまいと思った事のない夏みかんでも、 ヨットという全て限られたものの中で食べ

ると実に美味 しい。  あり余り、いとも簡単に手にすることが出来るところ で食べるのとは一味

も二味も違う。  それにしても書い。このみかんが冷えていたらどんな にか美味しいであろうと、

つい、ぜいたくな事を考えた。

 暑さのためか、近頃ではキャビンサイドの窓を通して 外をながめては交す会話にこんなのが

ある。

 「オーイ紀子!氷屋は来んか」  「来ないわねえ」

 氷屋とは本船の事である。 別に定義があるわけではないが、 「氷が欲しいなあ。 本船が近

寄って来たら一番に氷が欲しいなあ。」と毎日 思いをつのらせているから「本船」イクオール 

「氷屋」 という連想が働くのである。

 日が暮れると節電令の折であるから、夜間の灯火は一切なしだ。

 「満天に降る星空に星座表をかざし、下からローソクの炎を近付けながらバウハッチから二人

で首を突き出して 索星を試みた。

紀子

一遇間ほどやめていた酔い止めの薬を飲み始める。

や はり調子がいい。

びっくりするほど食べられたもの。

 彼が私のパースの天井にチャート (地図) を張りつけ てくれた。日本から現在の位置まで

のコースがつけてある。

本当にここまで釆ているのかと嬉しいやら信じられ ないやら。

隣りのカレソダーとにらめっこしながら、思わずニヤニヤ。天井にばかり目がいく。

 船内時計を現在位置の時刻に合わせてくれた。

 

海・千夜一話物語 第966話     二人ぼっちの太平洋 「シイラが釣れた」

 七月四日(金)晴 風力2

雅敏  

夜半、ふと目醒めた。窓を通してキャビンへ射し込んでくる月の光の入り 具合を見るとどうも様

がおかしい。  スターボードサイド(右舷)から月光が入っていた筈なのによく見るとポ ートサ

イド(左舷)から入り込んで来る。

 これは明らかにボルテ・チノのコースが大きく変化した事を示している。  北東へコースを引い

ていたのが東よりや1南へ下ったコースに変ったがために、月の光がポートサイドより射し込ん

来るのだ。

バース(簡易ベッド)に寝ころんでいてもその位いの状況変化は読み取れる のだ。

 昼食をとった後のくつろいだ昼さがり、スターンの後方の水面に目をやる と小型の鮫のような

四、五匹泳ぎながら、づっとついてくる。  鮫でもよい。昨夜、疑似針を切られた腹いせに釣り

げてやろうと決心し て残り唯一の疑似針をスターンから流した。  すると、すぐ手応えがあり、

い付いて来た。  引き揚げてみると、シイラであった。  まだ海面下には仲間が見えるので、

もう一度針を流したら二匹目が、これ も、いとも簡単に釣り上った。さっそく刺し身で賞味した。

 風が無いせいばかりではないが、ヨットにスピードがつかないのが気にな ってイライラする。

 船底に附着しているフジツボやエボシ貝等の影響も無視出来ない。  近い内に潜る機会が来

るだろうから、その時に使用する棒摺りをチャーハンの空缶を棒の先へ釘付けして作った。

 

 

海・千夜一話物語 第967話     二人ぼっちの太平洋 「ポリタンクに穴」

七月四日 

雅敏

 潜って船底の付着物をこすり落として、少しでもスピードアップを計ろう と考えた。

 使用済みの缶詰の空き缶を棒の先に釘付けして、棒ずりを作りながら、も う一匹のシイラをこ

ろがしたままにしているコクビットを何気なく見たその 時、あってはならない事を発見した。頭を

ガーンとぶん殴られたようなショ ックだ。

 真水を入れた20リットル入りのポリタンクの一つの中身が半分になって いる。キャップは二つ

とも付いており、蒸発は考えられないのに確かに半分 しか無い。  よく調べてみると底部から10

センチほど上に亀裂が入っており、ヨットのローリングで内部の水が波打ち、その亀裂からピユ

ツピユツと吹き出てい た。急いで残りの水をキャビンへ取付けた水タンクへ移した。  貴重な真

水、五日分の命水が海へ流れ去ったのだ。

 俺の身体の中を通って海へ流れ去るのはいいが、俺の口にも入らず、いき なりポリタソクから

海へ近道をしよった。

 更にトラブルが一つ増えた。   コンパスのグロ−プの上部に空気が入っていて、よく見るとコ

ンパスオイ ルが下部から参み出ているのだ。このオイルが抜けてしまうと方向がわから なくな

る。太陽熱で膨張してどこかに亀裂が入ったのだろうか。  さっぱりわからないが、熱を遮断す

るように白い布を日中はかぶせること にした。

 スターボードサイド(右側)にも同じ物を取り付けているので今のところ 心配はないが、それに

しても世界的に定評のあるダンフォース社のコンパスが出発してわずか三週間目にこれでは何

を信じたらいいのだろう。心配だ。

 日中は暑いので夜は、バウハッチ(全部開口部)もオープンにしているが 、この一両日は夜間

は少し寒い。

紀子

 またまた記念すべき日です。ビールで乾杯!  午後、彼の 「オーイ、ノリコ」という声で急いで

ハッチから首を出すと 、60センチ以上もありそうなシイラを釣り上げていたのである。船のあと

五、六尾泳いでいたそうで、二尾釣りあげると、あとは姿が見えなくなっ た。  とにかく大物で、料

理が大変です。デッキに包丁とまな板を持ち出して、気持悪いのをグッと我慢して、まず頭から落

とす。半身は刺し身、半身は六つ切りにしてムニエルに。小麦粉がないので片粟扮でなんとか形

だけでも似たようにして、刺し身の残りはショウ油漬けにしておく。明日でも焼こう。食事で一番気

をつけていることは、何を作っても次にまわさぬようにすること。 冷蔵庫に馴れた私にとって、翌

日にまわすと即くさるというイメージがあ るからです。食中毒にでもなれば大変だし、料理経験に

乏しい私にとってつ らい毎日===。

 お祖母ちゃん、恵子、誕生日おめでとう!

 朝食 ご飯

 昼食 ご飯、缶詰のやきとり

 夕食 ご飯、シイラのムニエル

 

海・千夜一話物語 第968話   二人ぼっちの太平洋 「初めてのシャワー」

1975年 七月五日(土) くもり

雅 敏  

 太平洋上に虹を伴ってスコールがやって来た。  紀子はさっそくバケツを用意して一番雨の

集まりやすい所へ置いた。 それは何といってもグースネック(マストとブームの付け根)の所が

一番適 している。  セールに当たる雨粒がほとんどここに集まり、水道の蛇口をひねったよう

に雨が流れ落ちてくる。  一部の雨はセールを伝って落下する勢いでブームのところからキャ

ビソトップへ落ちてしまう。そこでセールの下に当たるキャビントップヘビニール ボートを置いて、

これに雨水、命水を溜めるのだ。

 まだやる事がある。俺は素裸になってコクピットに立った。  朝食前でやや寒いのでウイスキ

ーをひっかけて、いにしえの雨乞いよろしく天をあおいで本降りになるのをじっと待った。

 身体全体にこぴり付いている塩分が洗い流される事はまったくもって気持ちが良い。喜びに耐

えないところだ。  しかし、ザーザー降りの雨に打たれるとさすがに冷たくて鳥肌が立った。

 「ウヒャーヒャーヒャー!」と気合いとも、嬌声ともつかぬ声がついロを割って出て来た。

 せめてそんなことでもして寒さをごまかすしか方法がなかったのだ。

 紀子はキャビンの中から、そんな俺にカメラを向けてシャッターを切る。  その写真の行く末を

考慮して俺は.バケツで股間を覆った。  シャワーも数分で去って行き、キャビンの中で裸体を

拭いた後、紀子に肌 シャツを出してもらって着た。

 シャツの両袖に手を入れて首穴に頭を突込みサッと着る。  ふと胸元を見ると、かって見た事

もなかった小さなボタンが三つ付いてい る。 不審に思いながら新めて見ると胴まわりもだぶだ

ぶである。胸のところだってブカブカで風通しはさすがに良好過ぎて身に着けているという実感

がな い。  どうやら、出発前のどさくさにお袋がつい間違えて自分の物を一緒に入れたらしい。

 お袋はどこまで追っかけてくるのやら…。

 舵海に出発して以来、思い出すお袋の顔は決って出帆の時に白いハンカチ を力一杯ふりな

がら泣いていた顔である。 怒った顔、笑った顔も知っているが、思い出されるのは決って最後

に見た 泣き顛なのである。

 この見送りの時、どんな顔で臨むべきかについては数年も以前から、その日の来ることを想

定して、よく食卓で冗談混りに語り合ったものだった。

 「お母さんが泣くもんきゃぁ」  「おみゃぁみたような、うるさい奴がおらんようになるんじゃけえ

嬉しそ うな顔をしちゃら−の」 そんな強がりをいっても、出発当日の母は、やはり、いつも通り

の涙もろ い母であった。

 

 

海・千夜一話物語  第969話     二人ぼっちの太平洋 〔シケの七夕〕

 七月七日(月)くもり 風強し

雅 敏

 03:30 ふと目が醒めた。しかし、この航海中にすっかり怠けぐせがついてしまって、ワッチ

(見張り)に起きようか、もう少し寝ていようかと、しばらくは決心がつかない。

 「ワッチのタイミソグが狂って本船と衝突したら、それこそ永眠だぞ!」 と惰心にムチを当て

やっと起き上がった。  バウのハッチから顔をのぞかせて右前方45度のところ、つまり東方

の空 と海が溶け合うあたりに星が見えた。  上天には上弦の月がかかっている。悪い風情

ではない。  水平線上の星は火星だろうか、やや赤味がかかっている。  しばらくその星を

注視しいてたら、少しながら動きつつ次第に光を弱めて水平線に没して行った。

 しばらくは、ハッチから顔をのぞかせたまま、寝ボケた頭で考えてみた。  「星にしては動き

が早い。それに東へ移動する天体があったかな。」  どうやら本船の船尾灯を星と誤認したら

しい。  しかも、そのコースから推察してみると、俺たちのヨットの前方を斜めに左から右へ、

西から東へ横切った形跡がある。  もし運が悪く、タイミングが微妙にズレていたら、今頃はそ

の本船とぶつかりあわや遭難ということになっていたかもしれない。さらに悪い事に相手が何

万トン何十万トンもする巨船だったら、たとえヨットとぶつかっても流木にぶつけたようなもので

ショックさえ感じないだろうから、海に投げ出された俺たちを救助してくれる可能性は皆無であ

る。  何しろ、俺たちは節電令下にあって無灯火で航行しているのだから、たと え当直の航海

士や操舵手の視界の中にいたとしても夜間は発見してもらえな い。夜間においては俺たちが

相手船を発見して避けて通るしか方法は無い。

 わが怠惰な心とそれによっで起こり得るトラブルを想像してゾーとした。

   NSB (日本短波放送) の天気概況に依ると、千島列島の松輪島附近に 中心気圧990ミ

リバールの発達中の低気圧があり、東へ毎時30キロメートルで進んでいるそうだ。  俺たちは

今、その中心より約900マイル南南東にいるのだが、夜明け前 からその影響が出始めて気圧

は徐々に降下し風力は四から五に上り16時過 ぎには、ついに風力6にまでなった。

 風はヨットに対して真横から吹く状態に、ウインドベーンをセットしてい たからローリング(横揺

れ)が大きく風上側のパース(簡易ベツド)にいる 俺はいつパースから落下するかと気が気では

ない。 寝ていても熟睡は許されない。パースのサイドは食料の棚になっているが 、その支柱

片方の腕を巻き付けて落下しないように気を配りながら寝なければならない。

 ロ−リングが激しいと小きざみに反応する三半器官の働きのためか、馴れた筈なのにまたもや

頭の芯の方で酔って来て気分が悪い。

 

 

 

海・千夜一話物語  第970話     二人ぼっちの太平洋 〔万事休す・バッテリが完全放電〕

 七月八日(火)雨 北西の風

雅敏

 バッテリーの電圧をチェックしてみると、ほとんど針が振れない。  昨夜のはげしい揺れで何

がバッテリーからダイナモへつないであるリード線のメインスイッチに当って入ったままになっ

いたのだろう。  完全に2Xにダウンしてしまった。  あわててエンジンをスタートさせてバッ

テリーチャージを試みたけれどすでに手遅れだった。  二時間もチャージしたにもかかわらず

電圧が全然上昇しない。万事休すだ。 この上は燃料がもったいないのでエンジンを切る。

 おかげで今後はバッテリー電源を必要とする全べての物が使用不能になってしまった。

 中でもロランが使えないのはショックだ。  しばらくは呆然自失であったが、冷静に事態を判

断しながら気を静めるよ うに努めた。

 もとより位置測定は原始的なセキスタソトによる天測でやるつもりだった のだからと、原点に

戻ることにした。  セキスタントは二台も持っていることだし、二、三日前、天測をバッチリやり、

ロランでその結果を確認して、腕に自信をつけているので、まず心配はない。

 キャビンのルームライトが点かないのは、暗くなったら寝ればいいし、夜明けを待てば明るく

なる。

 航海灯は、必要な時はサーチ・ライトで間に合わせられる。  しかし、パニツクには違いない。

 酒をくらい込んで一人でうなる。  それにつけても文明の利器の恩恵に浴していると、それら

がたとえ必要のなかった物であっても故障等して使えなくなると、とても不安になり、不便 を感

じる。

紀子

 昼ごろバッテリーのスイッチがONになっていることを発見。あわてて調 べてみたが、電圧が、

かなりダウンしている。エンジンをかけたら、と三時間位い充電してみたが電圧は上昇しない。

私にはよくわからないが充電するには別の発電機がなくてはうまくいかず、デイーゼル・エソジ

ソを使ったんでは油の無駄だからストップ。 これで無線、マスト灯、コンパス等電気系統は全く

幾能を果さなくなった。

天気予報で気圧配置を聞くラジオのためめ乾電池が唯一の電源になってしま った。  彼はか

なりショックを受け、発電機を置いて来たことを悔やんでいる。そもそも出発をあまりにも急ぎす

ぎ、せわしすぎてチェックがたらなかったのだ。私にしてもしかり食料が残り少ないのにガックリ

である。果物のカン詰、ヨーカン、上等なクッキィーを毎日でも食べたい。 おかず缶を好きなだ

け開けたい。ヨーカンなどは日持ちもしたろうに・・。

 昨夜は揺れて揺れて大変でした。ガタガタ右に左に物が当ったり、落ちたり、大変なさわぎで

した。

電気がないので、調べるのも直すのもおっくうで 、そのまま狂奏曲の中でウトウト・・・・。

朝 クッキィ、紅茶

昼 焼ソバ

夜 チャーハン

 

 

海・千夜一話物語  第971話     二人ぼっちの太平洋 〔甘酸っぱいミカンの味〕

 七月十日(木)雨のち晴 風力4

雅敏

 どんよりした空からは小雨が降っている。キャビンの天井からも、 おすそ分けの雨滴りがして

いる。  ゆううつな一日の幕明けだ。

ゆうベセールの取り込み作業で疲れたのか紀子が隣りで快い寝息を立てている。

 俺は空腹がひどくて、苦痛だ。しかし、天気予報の時まで紀子を寝かせておいてやることにし

た。                      

午前中の雨が、ポットに三杯分とれた。ざっと三リットル強であ る。 午後、日が出て来たら気分

が、がらりと変った。

 昼食後、無気力に身体をパースに横たえて、何日ぶりかで日和佐で紀子が買って来た甘夏

を食べる。  残り少い数量と生の果実を口にできるということで、うきうきと一包一包をじっくり味

や香りをかみしめて味わった。 うまい!  みかんという物をかって、こんなに美味しく感じ、か

つ味わったことはない。 一包を開いて口に入れる。そしてグジユーと噛んだ途端に甘酸っぱい

果汁が口腔の中を駆け巡り、喉を通って行って五臓六腑に染み込 むようだ。 部厚い皮でさえ

嘗めたり、かじったりしてみたくなる。

 四国一周単独航行の時、寄港した愛媛県の西端の三崎港の金森さん一家のことを思い出し

た。

 御主人は郵便局勤務だが、戦争中は軍艦「金剛」の、しかも選りによって火薬庫の上の部屋

に乗艦にしていたそうだ。

 俺は雨とシケのために寄港したこの港で、声をかけられ、食事をごちそうになりに家へ行って

二日間居座ってしまったのだが、奥さんもおばあちゃんも素朴な親切な人だったし、塾を開い

て近所の小中学生に英語と数学を教えている末の娘さんもやさしい、よく気の付く娘だった。

 いよいよ出発という時、自分たちが作った甘夏をビニールの風呂敷に包んで渡してくれた奥

さんの親切な心は今も忘れない。  荒れる海を一人でアンカーを上げて離れる時、防波堤の

上に立っ てハンカチをふりながら見送ってくれた奥さん。  とても去り難い思いがしたものだ。

 甘酸っぱい思い出だ。

 俺は近ごろ気になることがあるので、紀子にこういってみた。

 「俺は最近、リギンの音とかブロックの軋む音が人の話し声のよ うに山間こえる」

 すると紀子も「私もそう聞こえる」 という。  紀子の、パースの真上に当るキャビソトップのと

ころにスピンネーカーポールが置いてあるのだが、その音が汽笛に聞こえるそうだ。

 昨夜のことだが、懐中電灯がスイッチも押さないのに、ひとりで に薄暗い光を発したので紀

子が悲鳴を上げた。 これは海水がスイッチのところにかかって電気が通じたのだろうと 推測

は出来る。

 幻聴に関しては人恋しさと人声への強い願望が原因だと開いたが、 二人でいても聞こえる

のは、どうしたことだろう。

 色々と不思議なことが起こってくる。  不思議といえば、紀子の作った本トウフもそういえる。

 上は角張っていても、底部が曲っているのだ。  トウフ用の角型の箱がなくて、どんぶりで固

めた前方後円型トウフも不思議な食べ物ではないか。

  花がつおと丸味のあるトウフの夕餉は、さしずめふるさとの味か。

紀子

 昨夜から凪になりセールがバタバタとやかましい。しばらくする と、静かになったのでよかっ

たと思っていたが、これはとんでもな い間違いだった。

彼に「風の変化があったら起こせ」といわれてい たが、私は波に採られてロ−リングするたびに、

ナベなどがガタガタするのに気をとられていた。  急に起き上がった彼は、デッキに出ていくと、

すごい声でどなっ た。

「一寸こい。この変化が分からなかったのか。音と波で分かったはずだ」

なんとメイン・セールがブームからはずれて旗のように なびき、船は流されていたのです。

 ヨットのことなど何もしらないのに・・と弁解しながらも、悔しくて涙が出て仕方がなかった。

ほんとに怒鳴られたの初めてなんです。このまま海に飛び込んで泳いで帰りたいと思っても、

ここは太平洋のド真中。やっぱり彼についていこう…。

 体がだるく何もする気が起こらない。頭の中ではいろいろしなけ ればと思っても、体がついて

いかないと彼もボヤいている。  もちろん、体がなまっているからとも考えられるが、栄養学か

ら 見ても決っしていい食生活とはいえない。

 午前中、雨が降って少しばかりだけど雨水が取れたので豆腐を作ってみることにした。

計量カップがないのでコップに感で計り、初めてなのでうまくできるかどうか心配だったが何

とかうまくいっ た。何とか食べられそうだ。夕食が楽しみだ。 ワカメの酢物を添えることにしよう。

 朝 ラーメン

 昼 ご飯、みそ汁、鯨焼肉(缶詰)

 夜 ご飯、みそ汁、冷奴、ワカメ酢のもの

 

 

 

海・千夜一話物語  第972話     二人ぼっちの太平洋 「友人達の寄せ書き」

雅敏

 リギソとチエーンプレートの錆の出て来たところへ 「 ハケで塗れる亜鉛メッキ」のロ−バル

塗った。  気を付けていると、結構やるべきことはあるものだ。  天気の方は、緯度の閑係で次

々に通過する低気圧が影響してカラリと晴れた日にはお目にかかれない。

 モーニングサイト時には太陽をとらえることも出来たが、メリパスの時には失敗した。 じっと待

って十五分後に雲を通して薄っすらと太陽が顔を出したのを、すかさずとらえた。波はあまり高く

ないので今日の天測の精度は非常にいいはずだ。 それらの計算と位置の確定が終ったら、午

後は、ワッチ以外はフリータイムなのだ。  そこで、午後は棚とか物入れの整理をしてみること

にした。

 出発のどさくさで、思わぬ物が思わぬ所から出て来たりするから面白い。

 ビニール袋に入った芳賀帳や寄せ書き。多度津で手に入れた俺たちの事を報道した新聞。

小豆島で隣りに停泊していた新聞運搬船が投げ込んでくれた新開等が出て来たので、かたず

けを忘れて読み始めた。 ノートにしたためた寄せ書き、クラブのフラッグにサインべソで書いた

ものもある。 読んでいる内、なつかしさの余り、二人とも思わず目がうるみ始めて来た。

 「オオッ!あの野郎うまいこと書くなあ」  「アッ!これ、あの人でし上う。こんなことを書いて

くれたのね」

 四十五フィート・コンクリートヨットはサンメイト号の井上夫妻のもあった。  彼等は一缶のク

ッキーに手紙を添えてプレゼソトしてくださったのだが、その手紙がクッキーとは別のところか

ら出て来た。

 御結婚おめ出とうございます。

 幸多き船路である事をお祈りいたします。

 私達の航海中、もっとも必要とした食料です。貴方達の航海中もきっとお役に立つ事と思わ

れますので一緒に連れて行って下さい。

海が荒れて何も喉を通らない時や疲れて甘い物が欲し い時、缶を開けてはクッキーをつまみ

ながら、この手紙は読む毎にジーンと来た。

 グァムへ冬の海を乗り切って行った体験をもつ人だけ に、この当を得たプレゼントを思いつい

たのだろう。 寄せ書きもまたなつかしく、書いてくれた人の顔がほ うふつとする文に接すると遠

くにある故郷のことが思い出されて読むのがつらい。

 中には笑わせる友もいて、こう書いてあった。

 「二人の性交(成功) を祈る」

 こういった物は、日付変更線を越えない今はホームシックを誘うので、いまの読み物にはふさ

わしくないと二人で早々にビニール袋へくるんでしまい込んだ。

 夕食は昼に紀子が作った巻き寿司とキューリとサラミ ソーセージだ。

 ほどなく通り雨があった後に、黒い雨雲の下の西の水平線上あたりを燃えつくすような真赤な

夕日があった。  俺たちの顔も赤い。  帆も赤い照り返しを受けている。

 「レッドセール・イン・ザ・サソセット」 と粋がって しゃべってみても歌を知らない悲しさで実にく

やしい。

 東経170度に今一歩。

紀子

 昨日の残り豆腐で湯豆腐にしてみた。案外おいしい。 これからも水を調整して栄養満点といわ

れる豆腐を作ることにしよう。

 本日も風なし。アメリカに近ずかないのは腹立たしいが、皮肉にも体の謁子はすごくよい。

揺れれない生活は快適だ。  そこで昨日の豆腐に気嫌をよくして、今日は寿司を作ってみるこ

にした。

朝炊いたご飯に酢を配合する。そ ろそろ寿命のきたキュウリ、奈良溝、梅のしそ葉をタネにして

海苔巻きです。

道具がないので考えた末、アルミホイルを使用してみた。案外きれいに巻ける。海苔の四分の一

に巻き三つに切り盛りつける。

 写真をとらなかったので残念!パクパク食べてあとで気付いたんですもの。

とにかく美味しく最高でした。  今日の夕焼け、というより落日はすごく美しかった。 ふつうの夕

焼けは、西の空が真ッ赤になり、それこそ 「 ギンギンギラギラ夕日が沈む…⊥ といった歌が

とぴ出す。それが、今日のは厚い雲がどん帳のように垂れ下が っている。水平線の太陽の沈む

ほんの一か所、まるで破いたようなところへ、それこそオレソジ色というか真紅というか、丸い太陽

が沈んでいるのです。まわりの雲は あまりに厚過ぎるのか反映しないのです。思わずため息 が

飛び出す。彼はカメラを持って飛び出して行きました。 こんな一時を迎えると、ほんとに来てよか

つたと思うのです。

朝 ご飯、湯豆腐

昼 寿司(きゅうり巻き、奈良漬巻き、シイタケとシチ ューのまぜ一口にぎり) 赤出し

夜 昼の残り

 

 

 

 

海・千夜一話物語  第973話    二人ぼっちの太平洋 「夏だと言うのに寒い」

   七月十四日(月)くもりのち北東の風

雅敏

 ここ数日間まともに晴れた事がない。  北緯40度線南北ラインを低気圧が次々に東進して

来 る。まるで低気圧銀座だ。  今朝はシャツに厚手のセーターを着てその上に作業服を付け

毛布にくるまって寝ているのに寒くてならない。 靴下を久しぶりにはいているのに寒い。

 気温はなんと18℃なのだ。  太陽は昨日より気嫌がよさそうだ。  俺とかくれんぼをして遊

んでいるように時々顔を出す。  いない、いない、ばあ、と出る。

 天測するのも大変だ。  デッキに立って両足を突張りローリングで振り落されないようにハ

ッチカバーのステンレスのパイプにつかまっていて、太陽が 「ぱあI」 と来そうになるとセキ

スタ ソトのテレスコープを目に当てて探りを入れる。段々輝き出す一点を狙ってインデックス

バーを動かす。 そして 「よ−い」 と声を引張りつつある瞬間に 「テッ !」 と奇声を発する。

 この時、紀子にクロノメーター(時計)を読んでもらう。  こうやってモーニングサイトと傍子

午線経度法とで正中時位置を出すのだ。  北緯38鹿東経174度と出た。  十二日から二日

で160マイル帆走したことになるが、ボルテ・チノではこの数字はいい方なのだ。

 この調子だと、デートライソ通過は今週末になるだろ う。  しかし何故かつらい。180度とい

う頂上が目の前に見え始めたために牛歩が実にじれったい。

 高校最後の夏休みに富士山登頂を試みたことがあるが、 八合目あたりで頂上が見えてくる

と途端に苦しくなって来た。、  目の前にせまる頂上へ早く行きたくて今までの登山のピッチを

早めて登ろうとする0  しかし気はあせってもピッチは上がらない。逆に急に しんどくなって来

てバタンと路傍へ座り込でんしまった。  しかしながらその過程はどうであれ登頂は苦しんだ

だ けの価値はたしかにあった。  登頂に流した汗がひくと壮快感と満足感が残った。 頂上を

棲めたということは自己満足にすぎない。しか し、またそれを誰に知ってもらおうというもので

もないのだ。ただ成し遂げたことを自分が知っていればいいのだ。

(白珠は 人に知ら得ず 知らずとも良し  知らずとも われ知れらば 知らずとも良し)                                                                            紀子  朝から気分が悪い。胸がムカつくのだ。どうも食べ過 ぎらしい。寿司の食べすぎ。昨日

はおやつに鹿餅を食べ、 夕食のビーフカレー美味しくパクつき、本日の朝食で炊 きたてご蕨に、

マヨネーズをまぶして海苔で食べたらユ ニークな味で美味しく頂けたので、お返しがきたのでし

ょう。今まであまり食事の量をとらず胃を過保護にしすぎたところへ、この有様なので無理もない

といったとこ ろです。 昼、ちょっとだけ太陽が顔をのぞかせる。昨夜よく走 っていたので期待し

ていたところ、やはり嬉しい答えが出た。

天井のチャートに印が入る。デート・ラインまでもう少しだ。凪がなければ、今週中に越えるとい

う彼。 とにかく二人して笑みがこぼれるひとときです。

 朝方すごく冷えて、背すじがガタガタ衰えるぐらいで した。北に上がっているからだけではなく、

やはり気圧配置の不安定なせいでしょうか。太陽も出ないしまつで、 梅雨みたい。キャビソの中

はジトジトしているし、干すことができないので、衣類なんかも何となく湿っぽい。

 彼はセーターを出せのソックスを出せのと我慢できないらしくわめいている。

 福山では、どの位いの暑さかしら。冷房のきいた部鼻で仕事をし、帰るときのあのムーとした外

の空気はたまらなくイヤらしいし、とくに土曜日(半ドソ)なんか着くて車に乗れたものではない。

 日一日と寒くなってくるが、書い時よりよっぽど生活 しやすい。風呂がないというのが私を精神

に参らせる。 しかし、空気がきれいなためか、肌着は黒く汚れないし、汗で黄色く変色する事が

ない。シャツはギリギリまで着て雑布として使い、あとは海へ捨てる。私は三日に一枚、 旦那の

方は五日ぐらいで変えたらと言うのだが、まだ大 丈夫だとぬがず。黙っていると何日ぐらい我慢

するつも りなのかしら。

朝 昼 夜 ご蕨、まぐろ缶詰、奈良漬 おにぎり(昨日の食べ残し)、缶詰(朝の残り) 鳥飯(缶詰

 のおじや、さば照焼(缶詰)

 

 

海・千夜一話物語 第974話     二人ぼっちの太平洋

〔上ったマスト・トップはニ、三メートルも揺れた〕

七月十七日(木)くもり 風弱し

雅敏

 夜明け前からヨットのリズムが変った。  起き出してみると、風が東へシフト(変化)していた。

 紀子を起こして手伝わせながら、タックしてコースを10度から20度へ 向けた。  その頃は、

すでに風力が弱まり用人棒(自動操縦装置の綽名)の働きが悪 くなりヨットは西の方へ向い

てしまう。

いらいらしているその内に、ついに凪いでしまった。

 霧雨の降る凪いだ海上のロ−リソグするキャビンの中でジェノア・ジブを 取り込んでクルー

の鳩目の回りを繕う。  今にも鳩目が千切れ取れそうになっている。  どうもこのセールメー

カーのはチャチで保ちが非常に悪い。瀬戸内海用かもしれない。 取り込んだついでにタック

の下から10センチのところへ端をアイスプライスした10ミリのロープを縫い込んで、カニンガ

ムホールの代用にした。ここへテンションをかけてジプのラフを張るのだ。 なにしろ、フォアス

テイよりジェノアのラフの方が少し長いのでいつもたるんで風が逃げるので困る。

 紀子とセールを繕いながらキャビンでくつろいでいる内に昼が来た。

 ヌーンサイトの時刻がせまっているのに、天候がよくない。  薄曇りの空に太陽はボンヤリ

顔をのぞかせている。  「それ!」とばかりにセキスタントを把んで天測をする。

 困ったことにはフィルターをかけると太陽が消えそうになる。 フィルターをはずしたり掛けた

りしながら、なんとかヌーンサイトを終えた 。  やがて凪いだ海面に待望の風が起こりSEか

らSへとシフトしていった。

 ポシャ、ポシャ雨も降って来た。  うっとうしいが、お陰でキャビントップのビニールボートに

は四リットルの水が溜まった。  禍福は糾える縄の如し・・・・か。  溜った命水の喜びの後に

は、もうトラブルが待ち構えていた。

 ジプのハリヤードがマスト・トップへ上りきってしまったのだ。  凪いだ時、マストへ取付けた

ステップを伝ってマスト・トップへ昇った。

 下を見ないようにし、ワン・ステップづつ確実に昇っていった。  時には大きなうねりがやって

来てマスト・トップは二、三メートルも揺れ た。

 振り落されてアメリカへ落ちるのならいいのだが、紀子を早々と未亡人にするのはいやだから

マストにしがみついて、うねりをやり過ごしながらトップへ上ったジブのハリヤードの一端を把ん

で下りて来た。

 ジブ・ハリは3本もあるから、一本位い放っておいても支障はないが、しかし海況を見ると今が

チャンスなのだ。  今日のことは今日かたづけておく。

 身体のコンディションは、あまり良くない。  頑固な便秘で苦しむ。  三日も便通がなく、薬も

よく効かない。  おまけに、その愛用の薬も数が減った。  下痢止めなら沢山あるので、試しに

下痢でもすればと思いながら雨水をカップ一杯飲んでみたが、こんな時には下痢さえもしない。

 この苦しみも知らずにイルカが10頭ばかりヨットの回りで戯れている。  そのイルカに誘導さ

れたわけではあるまいが、このだだっ広い太平洋上でラグビーのボールのように風浪にもまれ

て変形した流木がヨットのバウにコ ツンと当って流れて行った。

 この広大な海域でなにもぶつかることを選ばなくてもよさそうなものだが 。

紀子

 セールの取り替えをしている時、イルカが姿を見せた。 10頭以上も群れをなし、白波をたて

ながら飛び跳ね、美しい縞模様を私たちに見せてくれる。背ビレだけ出して泳いでいるのは見

たことはあるが、一度にこんなにたくさんは初めてで、波に逆らうように全身海面から舞い上っ

ているのはなんだか信じられない光景です。

とくにサービス精神の旺盛な二匹(夫婦かな?)がヨットの側まで寄って来て飛 び上り、私と顔

が合ってニタッ・・まではいかないにしても、手に小魚でも持って差し出せば届きそう。

相性がいいらしく、飛び上る角度といい高さといいまったく寸分違わず、左手後方へ遠ざかるの

をいつまでも眺めていた。

 これまた、この作業の時、かつお鳥が二羽(これも夫婦かな)ヨットの周 りを飛んでいました。

胴が白で羽が黒。かもめを三倍にした位いの大きさです。太平洋のド真中で、島影一つ見えな

いのに、鳥がいるなんて考えてもみ ませんでした。

凪の時は十羽位い海面に浮んでいるのに出合う。 樹があって鳥が居るというイメージが消えち

ゃった。

 午後から、食料の点検をする。彼はデート・ライン(日付変更線)を過ぎてからでいいというけ

れど、一度気になりだしたら落ち着かないので決行す る。

菓子類は少ないことは分っているが、米は豊富にあるので、缶詰類、イ ンスタント類、玉ネギ、

ジャガイモ、野菜ジュースの残量を確認。

心配ないだけあった。

朝 ラーメソ

昼 焼飯(玉ネギ、シイタケ)

夜 ご飯(コンビーフ、ジャガ芋とわかめの煮付)

 

 

海・千夜一話物語 第975話     二人ぼっちの太平洋  〔デッキでトビ魚を拾う〕

七月十九日(土)霧のち晴…風力1

雅敏

 今朝コースチェックにデッキへ上ると昨日の船底掃除の故か、心なしかヨ ットがよく

滑っている感じだ。  ふと右舷のデッキを見ると偉駄天飛魚の今までの内一番大きい

のが墜落 していた。  記念に写真に撮った後は紀子の手にかかって、早速塩焼きに

なった。

 ところで今までデッキで拾った飛魚のサイズを記すると次のようになる。

   全長(cm) 胴回り(cm) 数量(匹)

   15      7       1

   12      5       2

    7      3       1

    3      1       1

 彼等にとって飛び上がったまま帰らぬというのは”昇天”とでもいうの だろうか。

 この昇天はそれほど多くはなく10日に一匹の割合だ。  しかも食べられるほどの大

きさのものは数えるほどでしかない。

 誰かの航海記によれば、毎朝フライパソを持ってデッキ回りをすれば、 『油いために

すればとても美味しい』といえる位いの大きいのがいくらも拾えると書いてあったが、海

域が違うのか、まるで信じることが出来ない。 これらのヨットへ飛び込んで来た飛魚に

とって昇天とは一種の事故 なのだろうか。  彼等はテスト飛行組なのかもしれない。

 翼の故障か方向舵関係の故障か。飛魚でも夜間飛行は危険だという事なのか。  

 昼間は時々シイラに追われて海上に飛び上がって長距離フライトを している奴を目撃

したが、太ってうまそうなのは、どう間違ってもヨットぶつかって来るのは皆無であった。

紀子

 朝食の仕度をしていると、点検のためデッキに出ていた彼が「カメラ ー、 カメラ!」とい

って帰って来た。 なんと、今までで一番大きな、つまり何とか食べられそうな飛魚を拾っ

たです。図鑑によると、イダ天飛魚といって約20センチ位いと書いてるので、本日の獲

物の15センチは上出来かもね。 さっそく塩焼きにして珍味を味わう。ほんの一口では

あるが、久しぶりの生きの良い魚の味に満足。  腹がたつのは、「腹がすいたナー。

何か欲しい。ひもじくて仕方がな い」 とぼやく彼。時間も三時だし、凪で進まないので

気分もスカッとしないのだろうと思い、本当は明日の日曜日に焼く予定だったホットケ

ーキを作ることにした。  ハチミツをつけて、私としては最高にぜいたくに作ったつもりな

のに、 彼はなんと「もっと分厚く、かぶりつくようなのが食いたい。それにして もまだひも

じい。クッキーを食べよう」 という。 「冗談じゃあない。それ はシケとか食事がすすまな

い時のために、とっとかなくちゃあ」と注意すると、「じやあ、ピーナッツでも」としつこい。

 水は二人で一日二リットルといっていたけれど、とても足りない。カッ プ 10杯といえば

料理でほとんどなくなる。だのに、今日なんか朝食のあと、 お茶、紅茶、スキムミルク、

昼食後のコーヒーと飲んでいるのに、 ホットケーキのあと、紅茶を出せという。 腹がたっ

て頭にカッカきたが、ヤケクソで 紅茶の仕度をする。