2003年4月26日
水も燃料もタンク一杯にした広島ヨットKAZU号は14:20、広島市観音マリーナを一路福岡県小倉市のフェリー発着港へ向けて出発した。回航組乗員は総勢5人である。
地元広島からはオーナーの有田一郎、ヨットに関しては何の仕事でもこなす国実カバさん。一方、回航助っ人で同乗するのは福山市からイッシー船長こと私、石川とその配下の石田、塩出の3人である。
今回の助っ人回航組に出された条件は、福山-広島間の足代は自己負担で来い。後の諸費用はオーナーが出してやる・・・と言う物であった。それに加えて、最初の夜食はステーキだと言われてこれを断るには相当の勇気が必要である。私はつくづく勇気の無い男だと悟ったのである。
4月27日15:30
中継点小倉のサウナで一休憩の後、対馬の厳原に向けて出港。穏やかな玄海灘はやがて夜を迎えた。 イカ釣船の漁火が煌煌と水面を照らす玄海灘は一色だけのオーロラかと見まがう光景であった。厳原まで80マイル、5ノット平均で16時間の穏やかな航海であった。
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対馬・厳原港にて着岸するヨットKAZU
先客があり、MyShip(東京)である。
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4月28日
対馬厳原港に07:00到着。着岸するとそのすぐ上に新出光のガソリンスタンがあり、イカ釣船の漁師のための自由に使用できるお風呂の情報を掴んでいた我々も利用させてもらった。おまけにGSのすぐ裏にはコインランドリーも用意してあった。
夜半、寒冷前線の通過に伴う驟雨と強風は、上陸して無人化した隣のヨットの走錨を惹起した。
4月30日 出国の手続きを済ませて、上ノ島(北島)と下ノ島(南島)の間にある狭隘な万関瀬戸を抜けて浅藻湾へ進入して行った。万関橋の下を轟々と流れる万関瀬戸は、もともとは地続きであった。南北に繋がり、東西の幅は尾根部分では十数メートルしかなかった。日露戦争の頃、軍艦を風雨に強く安全な浅藻湾へ進入させる為に掘削して水路を作った人工の運河である。
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万関橋西 万関橋 万関橋東
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5月1日
対馬-釜山ヨットハーバーまではおよそ60マイルである。前日の午後10時ごろ使用させてもらった海上自衛隊の係船ブイのもやいを解き、リアス式海岸の浅藻湾を後にする。先導艇を頭に縦列に並んで朝鮮海峡へ乗り出す。数艇を前に行かせ、その列を後ろから眺めると、マストトップの白色灯と船尾灯火の上下二つのランプがウネウネと海岸線に沿うように蛇行しながら続いていく。 まるで暗夜にのたうつ龍神かオーロラのようで美しい。
夜が明けて釜山は海雲台のヨットハーバーに近付いて見ると、数年前の光景とは明らかに様相が激変していた。 上下二階建ての高速道路が湾岸に突き出るようにして弧を描き、高層アパートが林立していた。狭い土地に大勢の人口を抱える国の宿命である。空間の利用を最大限に考えた結果、景観の喪失は否めないのである。
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海雲台オリンピツクヨットハーバー
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ヨットハーバーと高層アパート群
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5月1〜2日
全日フリータイムにしてクルーの英気を養うと言うオーナーの心憎い配慮を得て、釜山の休日を謳歌堪能する。 釜山の町の観光である。 「チャガルチ」は魚市場である。魚や野菜を売る店が一直線に路傍に並ぶ。屋台もあるが、一角にある市場ビルに入ると、生簀で泳いでいる魚を刺身にしてくれる。キムチ、野菜が沢山出てきて、そのうちのサンチュ(葉野菜)で包んで韓国風に刺身を食べる。気になるのがまな板である。こちらには板前道と言うものは無い様で、やや汚いまな板で作る刺身は、韓国の焼酎を胃に流し込んで消毒しながら食べると安心する。わが国の刺身とワサビの取り合わせは、冷蔵設備の無い昔の事ゆえ痛みやすい刺身の一種消毒の効能を期するところからの発明・・と昔人の生活の知恵を思い出した。
「カルビ焼肉」骨にクルクルと巻いたカルビ肉を焼きながら姉さんが挟みで一口大に切ってくれる。味はやや甘い。
「屋台のソーメン」 国際市場の一角。さっと湯がいたソーメンに唐辛子とか海苔とか数種類の具をチョンチョンと放り込んでくれる。これは美味しい。
「キムチ売り」 4年振りの訪問である。この一角を探し出して、試食しながら注文する。向側には荒物やがあり、タッパウエアー手ごろなのを売っている。それを買い、ビニール袋につめたキムチを収納して、テープで目張りをしてビニール袋3枚に入れてくれた。
「李舜臣」 豊臣秀吉の朝鮮征伐軍を撃破した韓国の英雄である。 古都・慶州へ行くとガイドが説明する。「このお寺は、日本の加藤清正が火を放ち・・・」 そんな昔の人の責任は取れない。
「前夜祭」 グランドホテル海雲台は特一流のホテルである。天井の高さとホールの広さが逆に空疎感を生み出し、参加したヨットマン同士の親密感の希薄さを生んでしまった。
知り合いだけが旧交を温め、見知らぬ者たちは他人のままで終わる・・と言う従来のパーティー形式は何等変わるところがなかった。 銘打って日韓親善ヨットレースである。 韓国の選手団とは少なくとも言葉を交わすチャンスが欲しかった。
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チャガルチ市場 カルビ焼肉 屋台のソーメン |
キムチ売り 李舜臣 レース前夜祭
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5月3日
12:30頃アリランレースのスタートの号笛はなっ? 強い海風に消されて聞こえなかったが、本部船のマストにはX旗が揚がっていた。 リコール艇があつたようだ。未だ温まっていない陸地へ向かって南寄りの暖かい海風がせり上がってくると霧が発生する。スタートしてから対馬で夜を迎えるまでは濃霧の中をスターボードタックの片上りコースであった。ときおり15m/sを越えそうな強風にファーリングジブやメイン1Pリーフ対処でレースは展開された。
対馬を視認して東沖へ回り込んだあたりから風力に衰えが見え始め、夕方から朝まで無風、微風の中を周辺に散見する航海灯の仮想ライバルヨットに闘志を燃やす。
毎度の事だが対馬で出会う凪とその時とる岸ベタか沖へ逃げるかの二つの選択肢の一つが勝負の分かれ目になる。 |
朝食のコムタン
岬に乗りあがる海霧
博多へ向けてヒールしながら走るレース艇
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5月4日
対馬の東40マイルに位置する宗像郡沖ノ島が目と鼻の先に見える。 初めての人は「よくぞこんな所まで・・・」と思う。相変わらず微風であるが、軽量の小型艇が追いつき追い越して行く。
海面を見ればまるで鏡の様にヨットの陰が揺れている。 豪華なれども重いヨットKAZUの面々がいかに苦虫を殺したような顔をしても勝利に導いてくれる風の到来は最後まで無かった。
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対馬東沖の凪 ヨットKAZUの面々
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5月5日
この日は韓国でも子供の日である。 入国審査を受けて晴れて日本人に帰れるのは17時までに到着したヨットとその面々・・となっているが、到着がその刻限に遅れること二時間・・では、検疫、税関、イミグレーションはおろか神にも見放されたと嘆いても誰も異を唱えないのであった。
”故郷は遠くに在りて思うもの・・韓国はキムチの匂いで思い出し” |
夕暮れのフィニッシュ 入国審査完了後のKAZU
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