2001.Sep.2,3

 

めがね橋から木の葉を流す
誰にたよりを オワラ やるのやら

                野口雨情

おわらの歴史   350年前、八尾町が誕生した頃、娘たちが繭鍋の糸をあやつる時に口ずさんでいたのが始まりだと言われる。三方を山に囲まれ唯一北に拓け、井田川の清流にめぐまれる自然の環境。人情風物が醸し出す素朴で情感、幻想的な哀調をもった町になったようだ。聞名寺の門前町として栄えた八尾の町は、また飛騨と越中を結ぶ要でもあった。町並みには 先祖代々続く造り酒屋や、道具屋、骨董屋が軒を連ね、 往時のたたずまいを今も静かに伝えている。この坂の町の家々の軒下に溝があり清水が勢いよく流れていく。これは“エンナカ”とよばれる溝で屋根雪を流すための雪国ならではの生活の知恵である。

酔芙蓉という花がある。おわらの季節にあわせるかのように咲く花。まるで酒に酔ったように 朝は白く、昼くらいから色づき始めて夕方にはすっかり赤くなる。 高橋治著「風の盆恋歌」の中で題材とされ有名になった。 毎年、八尾の人は丹精こめて、おわらにあわせて可愛がる。 夕暮時、軒先でひっそり咲く酔芙蓉は何とも言えないたおやかな風情がある。 諏訪町あたりをそぞろに歩くと、小説の最後に登場する酔芙蓉二輪の事が思い出される。

おわらの美しさは線の美しさであろう。とくに腕と手、指先の線の作る流れの美しさには驚嘆させられる。おわら踊りの美しさ、線と形の美しさは 天下一品である。

女踊りは、動きが柔軟で線や形が常に流動しているが、男踊りは一瞬その動きが停止する。その瞬間にパワーを蓄え、次の動作に繋げていく。勇壮である。


     プロローグ  

 一筆啓上 火の用心 お千泣かすな 馬肥やせ」 簡潔明瞭最短の手紙で有名な福井県丸岡城がバスの窓ガラスを通して視野の中に飛び込んで来たのは、福山を出発してからかれこれ5時間を経過していた。富山市内で時間つぶしと買い物で、越中反魂丹の本舗、池田屋安兵衛商店とこれもつとに有名な鱒ずしの工場を訪れる。やがて陽がまだ残る八尾の町民ひろばへ全員下ろされたのは、午後5時を過ぎた頃だった。350台もの観光パスが出入りする町民広場には駐車は許されないので、おおよその説明と緒注意を聞いて、三々五々町へ繰り出して行った。ガイドの最後の言葉が気になった。「では皆さん、23時にお会いしましょう」6時間もの長い間、ろくに座って休む所もないと言われる八尾の町では、路傍の石、橋、護岸の淵にも、仮に空いていたらまるで椅子取りゲームのようにして、速やかに座る権利を自分の物にしないといけませんと教えられた。
 おまけに17時から19時までは、夕食のための休憩で誰もどの町内の踊り子も踊っては居ないと言われた。さらに、これから2時間ほどは屋台へでも首を突っ込んで、夕食代わりにしなさいと、有情なのか非情なのか判別しかねるガイドの声を背中で受けて そぞろ歩きかけた。

 

写真左上の大きな屋根は聞名寺

歌に唄われた聞名寺は井田川の川向こうに甍が見える。 遠来の人々は三々五々、宵から始まる幽玄の美を楽しみにして、暫く腹ごしらえと休息をとる。 写真右は、聞名寺の正面廊下を舞台として、檀家衆が踊りを披露する。 ここでは、踊子も地方も観客も全員が仏様に感謝の黙祷からオワラ踊りを展開していく。

お巡りさんとトイレで連れションをしながら、今日の観光客の出足を聞いてみた。「昨日(9月1日土曜日)は12万人だったが、今日はそれを下回るでしょう」と言った。観光バスは、その数350台にも上った。

 

 

”夢もほのぼの 聞名寺の鐘は 
遠い有磯の オワラ 帆にひびく” 
              白鳥省吾

 

昔の面影を残す街並に明かりがともる頃、どこからともなく聞こえてくる三味線、太鼓、胡弓の音、それに合わせて哀調をおびた唄声が流れはじめると、街道から路地裏から踊りの列が舞い揃う。ぼんぼりとまん幕で彩られた街に編笠の波が流れてゆく。  「唄い手」「囃子方」「太鼓」「三味線」「胡弓」のそれぞれがおわら節独特のハーモニーを奏で、「踊り手」はそれに合わせ町中を踊り歩く。

立春から数えて二百十日目が台風の厄日とされていました。 この厄日の風を払い鎮め、五穀豊穣を祈る行事として「風の盆」となっていったとする説もあります。 とはいえ、この名前に封建的な暗いイメージはなく、むしろ町人の自由な息吹を感じさせる風祭りとなっています。「おわら風の盆」の舞台となる越中八尾は、飛騨の山あいに広がる、細長い坂の町です。 人口2万人の、普段はひっそりとした静かな町が、「風の盆」の間は、おわら一色に染まります。 そしてわずか三日間で、「おわら風の盆」が述べ三十万人もの人々を集め、魅了することになります。


 

 
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